ズキンが悪いのではない。このたびのズキンの用いさせ方を問題にしている。いつこのズキンは、どのように支給されたのか気になっている。自己負担か否か。
実は私もズキンを持っている。今は、座布団代わりにしてPC用の椅子で用いている。これは、61歳の春に、学長の白羽の矢を立てられたが、その時に用意した。その任につく許諾を、臨終にあった母から得て妻に作ってもらった。その縫製をもって妻の許諾の証と見た。
私には、学長の任は重かった。重すぎた。そこで、私にできることを絞り込んだ。その第一は、学生の身の安全だった。日本は地震国だ。いつ何時、幾日にもわたって家を空けざるを得なくなるかもしれない。頭巾を隠しもって、小さなアパートと学校を行き来すようになった。
このズキンの前に用いたズキンは、尋常小学校時代に用いた今は亡き母のお手製だった。そのズキンを背にして通学した。サイレンの音におびえ、あたふたの頭巾をかぶった。その都度、心に潜在意識として何かを積み上げていたように思う。
今のズキンは、いつ、誰が、何のために、いかにして持たせたのか、興味津々だ。
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