「次官・若手プロジェクト」チーム員は、締めくくり(64ペイジ)で「2度の見逃し三振」は許されない。2025年に備えて「この数年が勝負」と訴える。
2025年に「わが国の工業社会体制は崩壊する」と見て来た私だし、その崩壊に備えた「勝負ところはここ数年」と見ているだけに、面白かった。
だが、「2度の見逃し三振」とは何か、と憶測し、これだろうと見定めたが、あれは「見逃し三振」ではなく「空振り三振」ではないか、と思い直した。ならば、と考えているうちに、3度目の空振り三振をしてはならない、との苦い想いが込み上げてきた。
最初の空振り三振は、「力のほどを見誤った空振り三振」だろう。それは、世界が注目するいわばバッターボックスを自ら用意して立ち、支那事変から始まる武力戦争を売りかざしたことだ。とどのつまりは、太平洋戦争の敗北で終わる「力を見誤った空振り三振」だ。
問題は、負けたと決めた瞬間から天を焦がすごとくに証拠書類を焼却しながら、聖戦を主張するムキが今もあることだ。要は、ドイツと異なりキチンとした清算を怠り、世界の孤児化しつつある。その劣勢をお金であがなおうとして、未来世代にツケをまわしかねないことをしている。このありようこそが自虐的だ、と私には思われる。
2度目の空振り三振は、「お金のほどを見誤った空振り三振」と見て良いだろう。1985年ごろから露わになり始めたバブル現象という、世界が注目したバッターボックスを自ら演出し、さっそうと立った。にもかかわらず、選球を間違え、醜態をさらした。みんなが共感できる「欲望の解放」に突っ走り、まるでバクチでオヤジがつくった借財を、女房の手内職や子供のアルバイトで償わせようとするような結末にしてしまった。
実は、そうなりかねないとの私は不安にさいなまれた。むしろ「ここを大チャンスとして活かすべきだ」と叫ぶ一文をしたためたくなり、脱サラした。未来は過去の延長線上にはない。「欲望の解放」から、真の自己実現をこぞって目指す国になるべきだ。それが、次代が求めるホームランだ。国家としてホームランをカッ飛ばし、世界から尊敬される国になろうと呼びかけた。
私たちの脳の構造にまで踏みこみ、あらゆる動物が共感する「欲望の解放」から脱却し、人間のみに許されている「人間の解放」を目指そう、との呼びかけだった。
同時に、万人が「消費社会の延長線上には未来はない」と予感し始めている点を指摘し、それはポスト消費社会の旗手を目指すことを促している、との提案でもあった。
37ページの一文が、この点の模索から出たとすればすばらしい。そう思ってがぜん面白くなった。だが、現政権は、なりふり構わず消費を助長する「欲望の解放」路線を走っている。それは、難民やテロの誘引剤だ。いらだたしい。そのいらだたしさを、37ペイジの一文に観たわけだ。
次いで49ページの言い回しに、その苦労の跡を見て共感した。「シルバー民主主義」という言葉と「20年後には多くの大企業は存在しなくなっている可能性がある」との控えめな指摘に同情もした。「逃げ切れる世代」の一人である私だが、「こんなシルバーに誰がした」と叫びたい。
「お金のほどを見誤った2度目の空振り三振」は、実に腹立たしい。にもかかわらず、現政権はその延長線上を走っている。これは私が危惧する第3次大戦の敗北を喫しさせかねない。
武力戦争で手痛い空振り三振をし、植民地主義先進諸国に免罪符を与えてしまった。2度目の空振り三振は、経済戦争での敗北であり、あがなうのが余計に難しい。もっとも、石橋湛山のような政治家が出てきたら、そして国民が活かしたら、一気に逆転ホームランをうったような事態に出来るだろう。
この「次官・若手プロジェクト」チーム員はこの点を先刻承知であるのかもしれない。2ペイジ前(47ペイジ)に見た一文に、私はそのイラダタシサなどを感じている。
そして2025年という文字から始まる64ページに至った。ここで、私は、3度目の空振り三振をしてはならない、との苦い想いが込み上げてきたわけだ。それは次代への転換である。だが、現政権は武力戦争での手痛い空振り三振の二の舞を演じつつある。保身と私利に走る姿がなんとも情けない。
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