匠の祭典

 

 台風18号が直撃する日程での開催になったが、私はなぜか反射的に「晴れます」と瞳さんの前日の質問に自信満々で応え、当日は網田さんと、その気になって出掛けた。

 もちろん、妻にたのまれて前日の内に、温室の戸締りなど台風対策を済ませたが、空模様はむしろ穏やかな曇天になり、天候が快方に向かいそう、と感じており、軽い気持ちで取り組んでいる。台風は南に大きくそれるに違いない、と勝手な期待を抱いていたわけだ。

 当日は網田さんと早昼を済ませ、やがて「職人の時代がやってくる」と睨んでいる私はウキウキした気分で網田さんが運転する車に乗り込み、妻に見送ってもらった。

 演習会場では既に大勢の人が参集しており、雨天の場合の準備も済んでいたようだ。開会式は大きなバーンの中で執り行われたが、そこにはベルト式電動のこぎりの設備などがあった。

 今回も第1回と同様に、槍鉋(ヤリガンナ)大鋸(オガ)チョウナでの名栗(ナグリ)とハツリ、そして鉞(マサカリ)でのハツリ、以上の模範演技と腕を競う競技会のプログラムの1泊2日だった。だが今回は、2日目の夜に「語らいの夕べ」のプログラムが新たに設けられており、私たち2人はその2泊2日コースを選んでいた。

 演習会場は昨年同様、京北木材総合センターで、宿所は京都府立ゼニナールハウスで・アウル京北だった。この度は、この間を行き来する間に「京都マンガン記念館」があることを知り得たし、京北木材総合センターの一角では「北山丸太の展示と説明」をする場が設けられていたことを知った。

 初日の午後は、模範競技の見学と、腕の立つ人から技をひもといてもらう時空が繰り広げられた。この度の目玉は、長津師匠の要請に応えて複数の西洋人もやって来ており、西洋の技術を紹介した。その1つは西洋の鉞(マサカリ)でのハツリの紹介と、その鉞を活かした技の披露だった。

 この方式に2つのことを学ばされた。第一は、丸太を固定する大きなカスガイだ。これは、日本のカスガイより、明らかに優れている。なぜなら打ち込んだ丸太などに傷跡をのこす可能性が、木の目に刃先が沿うようになっており、はるかに少なくなる。

 

大きなバーンの中で執り行われた

槍鉋(ヤリガンナ)

大鋸(オガ)

チョウナでの名栗(ナグリ)

鉞(マサカリ)でのハツリ

西洋の鉞(マサカリ)でのハツリの紹介

 

丸太を固定する大きなカスガイ

日本のカスガイ
 
   

 西洋の鉞(マサカリ)は、日本のまっすぐな柄とは異なり、柄が左右のどちらかに(利き腕に合わせて)大きくゆがんいる。これは、電動のこぎりがない時代に、丸太をより正確に平らに削り、四角く仕上げる上では勝っている、と見た。参加した職人は、手早く丸太を角材にした。

 かくして、雨は降らず、風も吹かず、1日目が無事に終わった。実はその間に、わが家では2人の小夜子さんが悪戦苦闘をしていたことを、翌朝の電話で知った。携帯ラジオを持参しておらず、ソフトバンクのケイタイは競技会場では通じなかった上に、泊所ではTVを見なかったからだ。それは「晴れます」との奇妙な思い込みの上に、近辺の状況で台風はそれたと見てとってしまったからだ。車でなら小1時間しか離れていない距離のわが家で、大水に悩まされていようとは夢にも思っていなかった。

 この日は、五島列島から参加した医師の宮崎さんが、今年も大鋸に取り組む姿を見かけたし、長津親方が「長勝鋸の大鋸」を引きそのクズを見て長勝鋸のすごさを改めて思い知らされ、驚かされている。また、どなたかがエンジュの生木を持ち込み、長勝鋸の切れ味を試していた。そこで私も、その活かし方を改めて試み、溝切りカンナのような木クズがでる刃であることを会得した。

 2日目は天候がより良くなった。だがケイタイで、もう一人の小夜子さんまであたふたさせたことを知り、反省させられた。チョットした遠方にさえ心を払うゆとりを、加齢が失わせているのかもしれない、との不安だった。商社時代の仲間を思い出した。あれほど「100年後の」などと語り合った仲間が、今も私の話を聞きたがりながら、ほんの20〜30分で水を差すようになっている。「解った」「一杯、イコウ」「ワシらが生きている間はもつだろう」。

 なぜ油断したのか、とも考えた。前回、長津親方が「私は、晴れ男だ」とおっしゃっていたことを思い出したし、雲行きは前日より良くなっており、「奇跡が起こった」ように感じ始めていた。

 70余年前の大人たちを思い出した。次第に戦況が悪くなっていることを幼い子どもにも分かるのに、大人はむしろそれを信じようとはせずに、思い思いの願いに期待をよせていた。聖戦だから、皇軍だから、大本営だから、はては大和魂だから、とあらぬ期待にすがっていた。

 加齢は、現実を都合よく解釈させがちになるのではないか、と不安にされた。

 2日目は、技を競いあう日であり、鉞(マサカリ)でのハツリの競技などは屋外で行わないと価値は半減だ。青空さえ覗きかけた空を眺めながら、ケイタイがなければ、どのような心境(おそらく有頂天)になっていたのであろうか、と考えた。だから改めて、会場近辺の天候を、奇跡のごとく感謝した。

 この度は鉞の彼我の是非を知りたく思っていたが、この度の見学で、これからは日本の鉞に軍配を上げてよいようだ、との結論を心の中で固めたくなる気分で修了式を迎えた。

 初めて目にするチョウナがあったが、これも鉞の彼我の比較と同様に、これからは和式が向いている、と思った。洋式は、機械式道具がなかった時代には、つまり板などを平らに削り上げる上では日本のチョウナより有利に使えたのではないか、「だが、これからは」と鉞の場合と同様に考えた。

 競技は前回と同様だったが、参加者の数には変化があった。チョウナでの名栗(ナグリ)が一番人気で、次いで槍鉋(ヤリガンナ)で削るわざに挑戦した人が多かった。挑戦者が半減したのは鉞(マサカリ)でのハツリだったが、今年も総合優勝者は、鉞でのハツリから出した。その技を見て、和式の鉞とチョウナに私は、洋式より軍配を上げた。

 一番人気のチョウナでの名栗(ナグリ)と次の槍鉋(ヤリガンナ)で削る技は、自動機械には真似られない意匠効果・芸術性の追求が期待できる。だから、参加者が増えて当然、と思った。このたびの槍鉋部門での優勝者は前年度と同じ人だったが、私は妻への土産にその削り滓を持ち帰った。他に、エンジュの生木をコースターのように薄く切った木片と、エンジュの一葉をそれに添えた。

 加えて、槍鉋で削り上げたヒノキの柱を買い求めようとした。だが、わが家には保管する場所がなかったし、これから使う目途が立たなかったからあきらめた。

 「方丈」を造る前であったら、階段を設えた柱に活かしたい、と思っていたに違いない。もし私がこの世に生まれ直し、茶席のような造作物を造れる身になれば、チョウナでの名栗や、ヤリガンナを多用する建物にするに違いない、と想像した。
 

大鋸に取り組む姿

長津親方が「長勝鋸の大鋸」を引き

そのクズを見て

初めて目にするチョウナ

チョウナでの名栗(ナグリ)

鉞(マサカリ)でのハツリ

エンジュの一葉

 

 このたびも、総合優勝の第2位は、私が「方丈」の柱に用いたかった槍鉋の技を披露した宮大工であり、総合優勝者は前年と同じく鉞でのハツリの名人だった。そこで、世話人の長津師匠は「次年度は、優勝の受賞を辞退してほしい」と最高の名誉あるお願いをした。

 「それで当然」と私も思った。この大工は、きれいに仕上げる速さが抜群であるだけでなく(一番人気のチョウナでの名栗以上の)傑出した芸術性・意匠効果を鉞で披露してみせた。この技は西洋の鉞より、日本のまっすぐな柄の方が活かしやすいはず、と私は見たわけだ。

 もちろん、宮大工はもとより、ここに参集する大工は、年齢はまちまちだったが、2つとして同じ道具(既製品)を持っておらず、鉞も同様だった

 チョウナは、刃も大事だが、同様に柄も大事であることを知った。わが国のチョウナはエンジュを柄に用いるそうだが、その是非は個人差がある。それだけにカラダの延長のようなところがある。道具はカラダの一部と言われるが、その典型例の1つだろう。

 この日、「北山丸太の展示と説明」会場を覗き、現物の杉丸太や資料などを前にして、その歴史や、天然と人工の差異、あるいはここでも生じていた苦戦の模様などを学んだ。

 また、2人の対照的な人と語らう機会も得た。薬師寺の西塔再建にも参画した今や長老的名工直井棟梁と、富山から駆けつけた専門学校生だった。

 直井棟梁はかの西塔再建では西岡棟梁の下に参集し、このたびの槍鉋部門の優勝者は直井棟梁の弟子の1人であり、西塔再建に加わっている。

 専門学校生は、場外から眺めるその熱心な眼差しに私はこころ惹かれたが、もちろん、この青年を見逃がさない人は他にもいた。いつの間にかエントリーカードを胸に着けて場内で見たが、どなたかに「私は顔パスが効くから」と気を利かせてもらったという。

 2日目の競技が始まったあと、ひと段落したと見て、「京都マンガン記念館」を訪れた。600mほどのマンガン鉱石を掘りだした跡の坑道を通り抜けると資料館が通じる。案の定、今は朝鮮半島出身者の自主展開する施設になっていた。50年ほど前までは採掘していたようだが、今では考えられないような労働環境だった。私は、58年前に、山形県の面白山黄銅鉱山のボランティア工夫を体験したが、その労働環境より過酷と見た。

 当資料館は、撮影禁止だが、どうしても記憶したい資料が幾つかあり、許可を願い出た。そのおかげだろうか、分かれ際にとても丁重な見送りを受けた。

 この日・「匠の祭典」2泊目の夕刻のプログラムは新規格で、私は大部屋で車座になって、一献傾けながらの喧々諤々することを期待していた。その期待には反し、幾つものテーブルに分かれたBBQパーティだったが、思わぬ成果を得た。網田さんと私の2人は、時間を間違えて最期に駆けつけたが、余っていた席がヨカッタ。五島列島で開業医をしながら、石油が枯渇した時代に備えた生き方を繰り広げているヒトと一緒のテーブルであったからだ。これで3回目(チエーンソーの目たて講習会が最初で、2度目は初回「匠の祭典」)の出会いだが、深く互いに想いを理解し合えたように思う。

 何人かの息子に恵まれた上に、獣医、樽職人、鍛冶屋、あるいは、と自給自足村落を形成する上で不可欠の職に父と子で携わっている。この日、右隣の好青年が鍛冶職人である息子だったことを途中で知り、その感激のほどは言葉にしにくい。話しが弾んだ。

 この席を6人で占めていたが、他の1人は長津親方の愛弟子であり、私はこの人に真似て師匠を「親方」と呼ぶようになった。それもヨカッタ。前回は、もう一人の弟子が参加していたが、このたびは欠席で、後で知ったことだが、前回もオブザーバー参加であったらしい。

 「一度、五島に訪ねよう」「来てください」「その前にアイトワへ」などと話しが弾み、翌朝、熱い別れをした

芸術性・意匠効果を鉞で披露してみせた

2つとして同じ道具(既製品)を持っておらず、鉞も同様だった

 

長老的名工直井棟梁

富山から駆けつけた専門学校生

翌朝、熱い別れをした