緊張度はピーク
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この朗読劇は、徳島での観劇に次ぎ2度目だが、舞台設定やリハーサルに立ち会ったり、舞台裏で出番を待ったりしたのは始めてで、その喜びは格別だった。「流石!」と感動することもあった。リハーサルは、「これでいいんですか」と同志社大学のスタッフが問うほど順調に進み、短時間で終わった。その秘訣はプロ同志の共感とリラックスした互いの思いやりのようだ。 刻々と私の持ち時間が近づき、司会の景山さんに「5分以内ですよ」と釘をさされ、ドギマギした。心準備していた内容では、少しとどこおるとすぐに7〜8分になりかねない。思い切った割愛が迫られた。心の中で推敲し直し、舞台に出た。新宮英雄先生(エネルギー問題を人類史的に、しかも4次元的に捉える権威者で、私は世界1のエネルギー関連の学者として私淑)の顔が目に留まり、ドキッ。目を避けると、その目に「今日、(術後3年検診は)無事にパス」と電話で知らせ、岡山から駆けつけた友人の姿が飛び込み、なぜか緊張がほぐれ、心が落ち着いた。 大勢の方々の来場に感謝した後、「ここに至るエピソードの紹介」で前座を努めた。 振り返れば、この春に妻は銀座で個展を催したが、中村夫妻に覗いてもらえ、ライフワークに取り組み始めた、との話を伺って帰って来た。その時から半年が経過していた。 大それたことを私はしたものだと思う。何かにつき動かされたかのように、翌朝を待って、1ッ本の電話を入れた。何年か前に出会った景山さんに、「この人!」とばかリに電話を入れ、相談をした。 「やるべきですよ。有意義です」と励まされた。これがクリーンヒットのごとくとなり、このたびのサイクルヒットのような結果に結び付けた。 電話を切った直後に、22年前の思い出がよみがえったからだ。1995年は、『「想い」を売る会社』の取材でアメリカを2度訪れたが、その時の印象的な昼食時を思い出した。 ある2泊3日のコンベンションにも参加して、1つの分科会を選んだ。エネルギー問題では世界的な権威者と目されるエイモリ―ロビンスが座長であったからだ。その進行途中で議論が困窮したことがある。その時に私が持ち出した意見がヨカッタのだろう。 昼食時に、ロビンスさんは参加者100数十人の中からわざわざ私の前の席を選び、「あなたは闇夜のお月さまでした」と言って座り、食事を始めた。20分ほどの対話が続いた。 「自然エネルギーの普及を図ることは、『エネルギーの民主化』を促すこと」との助言を得た。 なるほど、と私にはストンと腑に落ちる体験があった。 「日本は、工業先進国の中では最も多様な自然エネルギーを最も豊富に有する国だ」 この点は十分承知していた。 「逆に日本は、巨大なプレートがひしめき合い、原発の設置には最もむいていない国である」 これもストンと腑に落ちた。 「民主主義国にとって、一番大事なことは『国民の自由』を守ることだ。そこが、専制君主国と違う。その意味で、自然エネルギーの普及を図ることが、とても大事な課題になっている」 こう聴いた時に、私は咀嚼も止め、しばし想いを巡らせたに違いない。 「アメリカの国民は、国家に首輪をはめられることを嫌う。それはエネルギー問題でも同様だ。だから全米に発電所が3000以上もある。それは、大統領も、明日の自分の幸せのためだと考える国だ。8年後には大学の教授になったりして、個人にもどる」 こうしたことを彼は次々と指摘した。今にして思えば、きっと私が、日本の民間家屋で本邦初の太陽光発電機の設置者だと知り、ケシカケタかったのだろう。「ロッキーマウンテンと言う研究所を持っている。一度来ないか」とも誘われたが、ついに出かける機会を失っている。 だが、この時のエイモリ―ロビンスさんの言葉を、心のどこかにマグマのごとくに溜め込んでいたのだろう。次の拙著『次の生き方』には「SMAD」という市民発電所を訪ねている。 カリフォルニア州の州都、サクラメント市の住民は、「電力という首輪」をはめられることを嫌い、市民発電所を設立している。その上に、安全だと信じてランチョセコ原発まで設けた。だが、市民発電所ゆえに情報をすべて開示する。だから稼働間なしにその危険性が市民に知れわたり、住民投票で廃棄処分を決めた。実はその後がすごい。電力自給自治体として模範のごとき姿を示すにいたっている。こうしたことを『次の生き方』に盛り込んだことを思い出した。 私は大それたことをしてしまったわけだが、なぜか腹が座ったような気分になった。その翌日のことだ。景山さんから電話があり、同志社大学が、この企画なら、と会場だけでなくスタッフの協力もしてもらえるが「どうしますか」と問いかけられた。もう後には引けない。 「同志社大学と言えば、中村先生は」と私は切り出した。「何年か、大学院で客員教授を勤められた」と伝えた。そして、中村さんと私との仲を取り持って下くださり、教師仲間の端くれにしてくださった今里先生に電話を入れた。次いで児童文学作家の今関先生に相談した。この人から私は、子どもたちには美しい空気や水ときれいな大地さえ引き継げばよい、子どもたちが自身でスバラシイ未来を切り開くものだ、と言ったようなことを学んでいる。「やりなさいヨ」と応援の声が返って来た。 呼びかけ人を文化人で!と願ったが、次々の「応援するヨ」と言っていただけた。次いで、事務局としてアイトワ塾に声をかけた。30年にわたり毎月1度、数時間の喧々諤々を続けて来た塾生に快く引き受けてもらえた。かくして実行委員の編成ができた。 こうした経緯を4分程にまとめて前座を努め、中村さんに引き継いだ。 実行委員の皆さんには手弁当で取り組んでもらったが、それも功を奏したようだ。入場者数で言えば、半券の数だけで、このライフワークでの入場者数新記録になったようだ。これは場外ホームランのような気分を共有できたように思う。 おかげで、打ち上げを同志社大学の学生食堂で繰り広げたが、これは「売上代金で賄います」と会計係にいってもらえ、心おきなく解散した。 付録もあった。中村さんの著書を販売しては、との助言を得たのは2日前。残念ながら講義録を取り寄せる時間がなかった。そこで閃いたことがある。アマゾンで掻き集めた7冊を、事情を言って正価で買い求めてもらい、その売上代金をすべて甲状腺障害に悩む子どもたちの治療費として寄付するアイデアだ。このアイデアは、瞬時に完売となり、実施できそうだ。 |
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