自分に気付かされ、ニンマリ

 

  鋭痛が消えたのは、風呂上りに前夜塗った薬効と分かった。「ならば、たいしたことはない」と安堵。だが、その深部にやがて違和感を覚え、それが不気味な重い鈍痛で、次第に耐えがたくなった。こうなると、いらぬことまで思い出したり考えたり。

 神戸のアパレル時代に、激しい鋭痛に3度襲われ、2度は短期入院した。1度目は今回と似たところで生じており、ついに原因不明のまま退院。この時に、人生観に関わるよき思い出が残った。2度目は右肩の後ろで、いてもたってもおられなくなり、横になり、両手を思い切り伸ばし、苦痛に耐えた。これも原因不明で終わった。その後、同じ症状で相棒(創業時代の役員の息子で、社長室で預かっていた)が会社で倒れ、まったく同じ症状を示した。救急車で運ばれたが、同じく原因不明で退院。問題は、ほどなく自宅で同じ症状を示し、入院先で死んでしまったことだ。私より、少し年下だった。

 3度目は自宅で週末に発症し、今も妻の笑いグサにされている。それは、中・高時代のクラスメイトであった医者に往診してもらったオカゲだ。

 人生観に関わるよき思い出とは、患者の意向(死にたい、殺してくれとの叫び)を真剣に受け止めるのは良いが、早まって死なせてはいけない、と断言できる体験だ。

 その変調にはかねてから気付かされていた。翌朝、役員会があった日曜日の夜に、それが露わになった。翌早朝の通勤ラッシュアワーには耐えられない、と見た。そこで、用心のために、妻に付き添ってもらい、前夜の内に神戸の下宿まで移動しておくことにした。阪急電車の地価階段で、後ろ向き」なら登れる体験など、学ぶことも多かった。

 問題は夜半に生じた。妻に「この痛さを再び体験することになれば、動ける間に自殺する」と訴えるほどの激痛だった。ジッとして寝ておれない痛さだが、チョッと脚でもずらすとモッと痛くなる。かつて右手の中3本の指をつぶし、痛いおもいをしたが、今度は原因がわからないだけに不気味で不安だった。「アメリカがうらやましい」とも洩らした。ピストルがあれば死ねるのだが、と思ったからだ。だが、一難去り、痛さの記憶が薄まった後は、生きていてよかったと思うようになっている。

 妻に笑いグサにされる3度目の自宅で起こった発作は、これも右の背中だった。朝を待って中・高時代の親友の医者に来てもらった。第一声は「森君、食えるケ」との食欲の質問だった。体を動かすと激痛が走ったので、おでんを小指の先ほどに切り、楊枝に刺して口に運んでもらい、舌でつぶして飲み込んでいた。口をそれ以上に開くと激痛が走った。その様子を妻が代わって説明した。

 結局、体を動かすと激痛が走り、診てもらえず、「森君、食える間は大丈夫や。帰るわ」で終わった。2日ほど安静にしたが、激痛が収まり、恐る恐る通勤しているうちに、違和感を忘れてしまい、今に至る。妻は今も、その時の食い意地を、思い出しては笑う。

 当時の私は、食事は車にとってのガソリンのごとし、と理解しており、ガス欠を怖れた。この食事観を一転させ、心の解放に寄与してもらえたのが橋本宙八さんだ。そのマクロビアンのおかげで今も拡張性心筋症と仲良く棲み分け、それなりの活動を続けている。それだけに、橋本宙八さんのためにも、ピンピンコロリの長命事例に、ボケずになって見せたい、と思っている。

 問題は、このたびの鈍痛だ。妻は「お医者さんへ」と言うが、食欲があり、気力もあるので、その気になれない。にもかかわらず、人間とは弱いもので、ケイタイを取り上げていた。ピンピンコロリの長命を願ってではなく、原因がわからない鈍痛が不気味であったからだ。少し、丁寧に言えば、妻を安心させたかった。過去に、むずかり通した挙句に、妻の運転で救急病院に駆けつけ、即入院という前科があるからだ。

 電話の相手は、病気で困ったときはいつも相談に乗ってもらう医師だった。自己リスクで、自己判断を下したい私は、プロに気になるところの相談に乗ってもらいたい。この医師には、質問に答えてもらえるだけでなく、問診があり、気付かせてもらえることが多い。この度は、「体重は?」がそれだった。「解りました。大丈夫です」と応えながら、ニンマリした。

 カキが実るシーズンだが、カラスやサルに盗られるぐらいなら、と数少なくなったカキを取ってしまい、体重を減らさなくてはと気にしながら薬のごとくに食し、体重を増やしていたからだ。

 わが家のカキの多くは、果汁を虫が吸ったのか、卵を産み付けたのかは分からないが、黒っぽくてすかすかになった傷跡が沢山ついている。だからヒトサマニはは差し上げにくいが、私には免疫力を高める薬(今もサルやカラスは食べ続けている)のように思われてならない。
 

黒っぽくてすかすかになった傷跡が沢山ついている