四国に2本の電話
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そもそも「恵方屋台」の発想は、昨年のいま頃、鳴門金時を沢山手土産に訪ねてくださった野田先生に負っている。この人は、徳島県上勝町の「葉っぱビジネス」の創案者だ。それだけに、わが家のカキノハ寿司が、その20年以上も前から始まっていたことを褒めてもらえ、それがとても嬉しくて、ある要請を心に焼き付けたようだ。その潜在意識に背を押されてこの恵方屋台を誕生させていたわけだ、と気付かされた。その要請とは、ある若者にチャンスを与えてもらえないか、それは鳴門金時というサツマイモの販売促進活動だという。鳴門は亡き母の故郷である。 そこで、野田先生に先ず電話を入れた。だがいつものように繋がらない。次いで、その若者に電話入れると、すぐに折り返しがあり、焼きイモは、ドラム缶を半分に切った窯で焼き、その保温は、などと要領を聴くことができた。しかも、京都での販促活動には大いに関心がある、と言う。その後、野田先生も電話を下さった。ならば「助かる」と、発想が広がった。 私たち夫婦は知恵を絞り「恵方屋台」という名称を考え出した。その時の「恵方」に込めた思いがよみがえった。私の友人が創業した津の吉の「誠実を絵にかいたような佃煮」を、その息子が継承する気になり、やがてその妻も参画することになった。私たち夫婦はその妻の想いを尊重し、応援したい、とかねてから思っていた。その想いが、野田先生の要請がヒントになって現実化させていたわけだ。とはいえ、それだけではなかったことを思い出した。 近年、この地域の高い評価に目を付けて、いわゆるフリーライドを思いつく人を招きかねなくなっている。来訪者にとっては、たまったものではないだろう。とはいえ、その是非善悪は各人の意識の問題であり、勝手には決めつけがたい。極めて難しい課題だ。 とはいえ、グレシャムの法則ではないが、悪貨は良貨を駆逐するものだ、と指をくわえているわけにはゆかない。その気持ちが「恵方屋台」を造らせ、そのように命名させていたことを追認した。 「案の定」と思った。津の吉の若奥さんは、恵方屋台を見て「想像以上の造作物」と思ったようだ。友人が訪れたら、その採算性に思いを馳せ、プレッシャーとなるかもしれない。それ相当の手の込んだ造作物が完成しつつある。 私にすれば、「誠実を絵にかいたような代物」や「誠実を絵にかいたような商い」が当たり前の地域に戻すことだ。大げさだが、この意識を日本中に普遍化することが、日本にとっての最もふさわしい安全保障だと思っている。 その実践者になったもらえる人にノルマ的な心の負担はかけたくない。とはいえ、わが家にはそれほどの余裕はない。だから「ヨカッタ」、「間に合った」と思った。津の吉の若奥さんに次いで、乙佳さんも到着。そこで、造作の一部変更を打ち合せた。乙佳さんは「間に合います」と返答した。 雨戸を兼ねた「跳ね上げ庇」とカウンターを設けるが、そのカウンターの取り外しができるように変更することにした、など。ならば鳴門金時の販売促進活動はもとより汎用性が広がるだろう。 実は、前週のアイトワ塾の席に、私は拙著『人と地球に優しい企業』を持ち込んでいた。たとえ一章であれ読み直してほしい、と思っていたからだ。だが、学んでほしいことと、学びたいことは、一致するとは限らない。私は、皆さんの学びたいことを優先することにした。 もし、「次は何を学ぶべきか」と問われたら、「たとえ一章であれ」これを読んでほしい、と言いたかった。私は、バブルの再来を期待している。かつてオランダでは有名なバブル現象が生じたが、その時にオランダは今の国の形を整えている。日本はそれに学ばず、停滞の20年にしてしまった。今度こそは、わが国の未来世代が胸を張って生きられるような「国の形」造りのチャンスにしてほしい。それがかなわずとも、各人がその雛形ぐらいは造ってほしい。 時あたかも、と言ってよいのだろうか。だからと言うべきか。またぞろバブル現象が見え隠れし始めている。今ならまだ十分間に合う。それは、「誠実を絵にかいたような代物」や「誠実を絵にかいたような商い」の再興だ。こうした想いの実践こそが生き残りの秘訣だ、と言わんばかりの実証こそが宝だろう。わが国の歴史がほかる真の気質にふさわしい風土に戻すことだ。それは「足るを知る」とか「紺屋の白袴」」、あるいは「のれん分けと言った諺に息を吹き込み、血を通わせ治すことだ。 それが、未来の日本への贈り物だ。未来世代へ何を贈り物にすれば、より望ましき国の安全保障になるはずだ。にもかかわらず、世の中は、その想いとは逆行している。政治の根本が「悪貨は良貨を駆逐する方向に進んでいる」と断言してよい。このままでは日本は戦前の発想に逆戻りだ。せめて各人が、自分なりに出来ることをしてほしいし、したい。 そこで塾では1つの質問をした。「仮に、息子が日産や神戸製鋼に就職が決まっていたとする。どうしますか」。一息つき、「そうした息子を持つ親は、この度の事件を知って、息子の就職をあきらめさせるだろうか。息子は、あきらめるだろうか」。 こうした巨大企業は、20世紀の化石だ。工業社会の落し児であり、早晩化石になる。そう私は考えている。オリンピックも万博の時代のオトシゴだ。オリンピックは農業文明の、万博は工業文明のオトシゴだ。か弱き私たちは、その渦に巻き込まれずに生き残る道を考えたい。 その思いで、乙佳さんと津の吉の若奥さんが打ち合わせる姿を眺めた。 |