3度にわたって幸いする出張
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横山孝司さんは京都ホテルオークラの料理長でもあったシェフだ。「寅」歳と、同じ干支だし、同じ病気持ちだし、名の「孝」も共通しており、しかも話が合った。問題は、往年の私(日にハイライ3箱)並みのヘビースモーカであったこと。時間厳守の人であることも、食事などの待ち合わせですぐに分かり、2日もせずに、旧知の中のごとくに感じられた。 幸いの最初は、3日目の朝のこと。約束の時間に現れなかったことが生じさせた。連日の作業ぶりと、肝心の仕事を終えた安堵だろうと思ったし、時間間違いかもしれないとも考えて、食事を先にとった。 1時間後にロビーに再度出たが、いない。部屋を訪ねてノックしたが、返事がない。慌てた。フロントに急ぎ、「死んでいるに違いない」とせっつき、その部屋に急ぎ、鍵を開けてもらった。「お客さんなら、お入り下さい」といったような促しに従い、飛び込んだ。だが、もぬけの殻。 詫びながらロビーに戻った。エレベーターの中でやっと「ケイタイ」に気付かされた。なぜ「ケイタイ」を活かさなかったのか、と反省しながら操作した。 そのベルが鳴り始める前にロビーにたどり着き、横山さんの詫びの声が聞えて来た。と同時に、私は「死んだもの、と思っていました」と愚痴った 少し寝坊をしたことから始まり、タバコを吸いに「(ロビーの外に)出ていた」、などと事情を聴いたが、フト妻を思った。私の寝息がしない時に、手にひらを差し伸べる、などと聴いてはいたが、やっとその時の妻の想いを実感できたように感じた。ヨカッタと思った。 次は、茨城県に移動し、水戸の大学での講義だった。幾つかの意味でありがたかったが、その1つは「偕楽園」がある都市である、ということだった。お釈迦様には、「後楽園」や「偕楽園」の発想はあったわけだが、どうやら「先楽園」の発想はなかったに違いない。幸いと言うべきか、私は拙著『庭宇宙』の冒頭でその想いに少し触れている。だから、聴講する学生にはその旨を伝えたし、渕上学長には『庭宇宙』のパートTとパートUを献本させていただき、横山さんも交えて歓談を楽しめた。 農業革命が誘った「楽」と、工業革命が誘った「楽」との差異。農業革命が誘った「楽」は、宗教を生じさせた。宗教を必要とした。それで充分であったのかもしれない。工業革命が誘った「楽」は、「その根本」であった「自然の摂理」を」見直させようとしているように思う。 だから2校の講義では、同じく自由と訳される「Liberty」と「Freedom」をとりあげ、「人間の解放」と「欲望の解放」という勝手な意訳までそえて、「Alternative」を考えた。 3つ目は、訪れた企業では社員が心に残る「名言」や「至言」を教え合う運動を始めていたおかげだ。そのファイルを借りてホテルに戻り、めくったが、その多くは初めて知るものであったし、その幾つかにとても心惹かれた。だからメモしたが、読み直しながら、つくづく心臓病に感謝した。 マハトマ・ガンジーは「明日死ぬように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」との言葉を残している。その心境を、私はやっと心臓病に気付かされた。人生は「いつかコトン」と言う現象に見舞われるかもしれない、という覚悟の始まりだが、この言葉に、その心境を言い当てられていたかのように感じたわけだ。残念ながら私は、心臓病にさいなまれていなければ、ここまでの感受は出来ていなかったと思う。 |
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横山さんも交えて歓談を楽しめた |
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