アイトワのココロの一端
 

 「屋根に登って落ち葉掃除をしてくれますか」と問いかけると、箕澤怜奈 (みのざわれいな) さんは微笑み、嬉しそうに屋根に上った。「落ちたら受け止めてあげて」と、川戸優真(かわとゆうま) さんに頼んだが、彼女は手助けを要さずに、見事に掃除を済ませた。

 当年のリーダー丸橋凱士(まるはしかいじ)さんはその時すでに、ヒメモクレンの背丈を止めるために切り返しの作業に入っていた。キチンと指示した通りに鋸を入れている。

 この日も、いつものようにまず1番に庭を巡り、作業予定とその狙いや意義を話し合いながら、それぞれの作業場を見て回った。その時に教えたやり方を守り、特殊な切り方をしている。それは切り取った跡が洞にならないようにする枝の切り取り方だった。

 その指導のおりに切り取ったヒメモクレンの一枝をもって、無事に屋根掃除を終えた箕澤さんを小さな睡蓮鉢(すでに花瓶のごとくに活かしていた)まで誘い、「生けてごらん」とその小枝を手渡した。この時の彼女は、微笑まずに「難しいナ」とポツンとつぶやいた。だが、目を放していた間に、見事に生け足していた。ささやかだが、状況判断が迫られ、「遊」の気持ちに触れる瞬間だ。

 男子の2人はすでに、次の作業に移っていた。カフェテラスの大きな睡蓮鉢を花活けのごとくに活かし、正月用のオブジェを完成させる作業だ。すでに、ナンテンやクロモジなどの剪定クズを生けてあったが、妻が「ドんと、もう一つ欲しいですね」と要望していた。

 ここに丸橋凱士さんが切り取ったヒメモクレンの頭を生け足してはどうか、それをもって仕上げられるのではないか、との思いを巡らせた作業だった。

 まず、川戸優真さんがヒメモクレンの頭㋾、泥の中に突っ込みやすいように切り口をとがらせた。「さあ!」と促すと、3人は「難しそうだな」と躊躇した。そこで私は、先に生けてあったナンテンやクロモジなどをサッサと抜き取って見せた。こうすれば大きなヒメモクレンの頭を泥に突っ込みやすくなる。問題は何処に、どの角度で突っ込むかだ。少々の風にあおられても大丈夫にしたい。

 見事に生け上がった時に、3人は歓声を上げた。これが正解、との感覚がえられたはずだ。

 ここで、私はまた、アイトワのココロの一端を話した。「アイトアでは剪定クズを活かしてこそ、生け花だと思っている」と語った。生け花のために、草木を切り取るのではなく、草木のために剪定をする。その剪定クズを活かしてこそ「生け花だ」との理屈だ。3人は、立ちどころには腹に収まらなかったようだ。そこで、ライオンとその餌食にされるインパラを例にとって補足した。

 ライオンは決して「生きのよいインパラは襲わない」。たとえば、子孫を残せそうな元気溌剌の雌や雄は襲わない。「私のような老先の短いものや病気になったものなどを狙う」。それが病気の蔓延を防ぐ、などとは考えてはいないのだろうが、インパラの群れの健全に貢献したような狩りになっている。私はこれも、1つの「自然の摂理」がなせるワザだと見ている。

 人間は、この「自然の摂理」を破りがちだ。出来るだけおいしいものを、と願った殺し方をする。ニワトリでいえば「出産期に入ったメス」をカシワにしたり、アヒルを無理に病気にしてカンゾウを取り出し、ホワグラとして珍重したりする。

 私はいつも、その是非は語らないようにしている。事実と思っていることを説明し、彼らなりの意見を、独自の頭の中でまとめてもらうようにしている。

 もちろん私も美味しいものが好きであり、何をしでかすか知れたものではないが、偉そうなことを言った。とはいえ、いつも心の中で意識していることがある。それは、私が最も悪質だ、と思うことは意識して控えていることだ。たとえば、他の人に解体などをさせておきながら、肉をおいしさだけで選別し、食べて喜ぶようなことは控えたい、と思っている。

 もちろん私にも美味しいものは分かる。だから、出来上がってしまったものはゴチャゴチャ言わずに喜んで食べはするが、それを所望することはないはずだ。「絶対に」と心がけていることがある。それは、たとえば魚の丸焼き。「猫またぎ」を自負している。誰よりも、と言いたいほど、食べ切ってしまうことだ。こんな気持ちを伝えたかった。

 この日、「仲間から」ということで「地酒」を1本、この3人の3回生に持参してもらった。喜んで頂戴したが、次回の来訪時にいかなる意見を補足すべきかと考えている。