この群馬出張では予期せぬ収穫が多々あった。まず淵上学長と過ごせた時間だ。それは「桑わんグランプリ」でお目にかっただけでなく、翌日の私の講義にも出席願えたし、その後は学長室に誘われ、私の経験談にも真正面から関心を示してもらい、ゆっくりと意見交換ができた。
次いで、ゼミ生の誠実さや粘り強さを通して、萩原ゼミの様子を伺い知れたことだ。猪突猛進のごとき教官の正直さや誠実さ、あるいは相手を思う心の大切さを、改めて思い知らされた。若者は、独特の感受性を秘めているものだが、その感度を、良き方向に触発するのは年長者の責任だ。その責任、いや責務の大切さに触れたような気分にされた。ひょっとしたら、若者の幾人はアイトワを訪ね、庭仕事を手伝ってくれることになるかもしれない、との気分にされた。かくして付録の時間になった。
翌朝、上信電鉄で横山シェフと一緒に上州富岡まで移動し、そこで萩原先生と合流し、富岡製糸所見学の予定だった。だから胸をふくらませて目覚め、約束時間の前にロビーに降りて悠然と新聞を読み始めた。横山シェフと一緒に食事をとることになっていたから約束の時刻まで待った。だが、時間に正確な人が10分過ぎても降りてこない。「(8時)半の約束だったのかもしれない」と思ったが、40分になっても現れない。ここで、生涯で2度と起こさないであろう大変なことをしでかしてしまった。
部屋を訪れノックした。強くたたいても反応がない。慌てた。この3日、横山シェフはオーバーワークだった。特にこの2日は立ちっぱなしの時間が続いていた上に、拡張性心筋症を患いながらタバコをスパスパ吸っていた。フロントを目指してエレベーターに乗ったが「言わンこっちゃない」と地団太を踏みたくなった。ルームに電話を入れてもらったが、でない。嫌な予感がした。合い鍵を求めると怪訝な顔をする。「死んでいるに違いない」と迫り、初めて客室係に同行してもらえた。
「どうぞ、お客様なら入れます」と促され、恐る恐る薄暗い部屋に入った。ベッドはもぬけの殻だった。安堵した、というより、バツが悪かった。
ロビー階での扉があくと、「スミマセン」と横山シェフもバツ悪そうに立っていた。「生きてたンですか」が私の第一声だった。「テッキリ死んだもの、と思ってたンですよ」と責めた。
横山シェフは寝ぼけたことを詫びたが、この時になってやっと、ケイタイを活かす手があったことに私は気づいた。次いで、コーヒーを飲む段になってはじめて妻に思いを馳せた。妻に同じような失敗をさせてきたことを思い出した。乗り越したとは気づかずに大騒ぎさせたこともあった。
富岡製糸所では、繭の保管場所「東置繭所(ひがしおきまゆしょ)」に踏み、当製糸所のスケールを実感した。「西置繭所」もあった。当製糸所は、フランス人ブリュナ氏の指導力のもとに建設が進み、運営された。ブリュナ氏を迎え入れた厚遇のほどを知って、当時の日本人が形のないものに対して認めた価値に驚かされた。月収100円+賄い費1,800年の年収9,000円。当時の日本の一般人の年収は74円であったという。100人分以上だ。
ブリュナ氏は、横浜で輸出絹糸の検査員であったが、抜擢されたわけだ。だが、その後の顛末を知り、今日の日本へと続くありように思いを馳せた。それはともかく、ブリュナ氏が用意させたその居住空間にも驚かされた。おそらく自ら屋内の掃除さえ行うことはなかったのだろう。それが、しかも、工女の寮(建て替物件)の間近かくにあった。
また、工女を家内産業から工場労働に転換させるためにフランスの工女を教師として招聘しており、その寄宿舎もあった。いずれも内部の見学は出来ないが、これが片手落ちだとやがて気付くに違いない。この日、工女と女工という言葉を区別して用いていたのかも、と気づかされた。
繭から絹を引くありようや、繭の中のサナギの姿とその行く末も初めて知った。キビソが生じるわけも知り得た。複数の繭から糸をランダムに引き出し、そのすべての繭から各1本の糸を引き出せるまでの不揃いな糸のことだ。このキビソを活かして見事な製品を手作りしていた元アイトワ塾生の岡部長生(ながお)さんや、和服業界の復権にかけ、業界に新風を吹き込んでいた現役の塾生・野中健二さんを、今年は揃って失ったが、なぜかいたたまれない気持ちで振り返った。
この後、コンニャク業界のありようをつぶさに見学できる商業施設に案内された。まずゼリーの1種だと知ったし、群馬がコンニャク製品のシェアー92%を誇る産地だと知ッタ。この時に、下仁田ネギオンパレードの道の駅(この出張で最初に訪れたところ)でコンニャク芋と小袋入りの石灰が一緒に売られていた光景を思い出した。わが家では一度だが、庭で育てた芋でコンニャクを手作りし、刺身で食したことがあるが、その思い出だ。その味わいを「テマエミソ」の錯覚だろうと思っていたが、打ちたてのソバのごとし、だと追認し、羨ましく思った。
かくして群馬での3泊4日を終え、次の付録に移った。福島の現状を知りたくなり、湯元温泉で1泊した上で、いわきから常磐自動車道を北上し、相馬まで付き合ってもらうことになっていたからだ。
湯元の温泉では、朝食さえまだ、まともに用意してもらえなかった。
まず、見納めの一本松に立ち寄った。27日に伐採と聞いたからだ。その樹皮に触れた時に、立ち寄りを強行してヨカッタと思った。この鹿島の一本松をなんとか残そうと願い、情熱を注いだ人たちの思いに共感した。周辺には3qにおよぶ松並木があったという。
近くに真新しい風力発電機が次々と建設され始めていた。黒い煙を吐く火力発電所の煙突も望めた。もちろん、火力発電所に立ち寄り、黒々とした石炭の山も見た。発電所の人たちは寡黙で、議論を吹っ掛ける気分にはなれず、敬礼姿で見送ってもらった。
道中では随所で放射線量を表示していた。次いで、無謀と思われる巨大な、延々と続く堤防を見た。これはGDPを引き揚げ、ゼネコンを潤したのだろうが、むなしさが残った。水田跡でハクチョウの群れが餌をついばんでいた。ホッとしたが、なぜか「大丈夫?」と心配もした。やがて浜辺のこうけいかのごとき、延々と続くメガソーラーが目に入り、「そうであったのか」と嬉しくなった。汚染地をものともしないソーラー発電で、地元が復興に懸けた事業、と見たわけだ。だから政府は、1kw48円という法外ともいえる高値で電力会社に買い取らせる法律をつくったのだろう、と嬉しくなった。
ところがその後、ドンデン返しにあって驚愕。このメガソーラーは、被災による弱みにつけ込み、ソフトバンクの孫氏が設置したもの、と知ったからだ。間もなく買い取り価格は11円に戻るが、それまでに孫氏は機器の償却を済ませるのだろう、という人もいる。
富岡駅、浪江駅などと立ち寄りながら北上し、南相馬では市役所にも立ち寄り、そこで昼食をとった。その後、日没とともに虚しさが増した。真新しいいコンビニは食堂部分の比率が高い。駅前ホテルや街頭は煌々と輝いていたが、街並みは真っ暗だったからだ。
双葉町は20、000人の住人の内400人しか戻っていない。チェルノブイリでは5ppm以上は強制退去だが、福島では20ppmまで安全とされている。戦時中を思い出した。それは防空訓練のバケツリレーに勤しむ母の姿だった。「焼夷弾など恐くない」と信じ込んでいたが、後で多くの人が焼け死んだことを知った。父の病魔が深刻となり、私たちは疎開したが、怖くないと思い込み、踏み留まり、元気の見送ってもらった多くの人がナパーム(夷弾)弾で焼け死んだ。この度は、甲状腺がんなどでジワジワと責め立てられかねないのではないか。
高崎から列車で東京に出たが、高崎までの道中で思わぬ収穫もあった。「あすとび福島」という施設に立ち寄り、半谷代表理事とで会えたことだ。311の前年まで東電の執行役員であったという。その願いや夢をもう少し伺いたかった。
夕食は車中でとらざるを得なくなったが、駄前のコンビニ弁当(車内販売はない、と聞いたので)と、プラットホーム(にはキオスクがあった)の駄弁と2重になったが、東京まで萩原先生と最後の晩餐でいい気分になった。そこで分かれて、私は水戸に向かった。翌朝は常磐大学での講義が待っていた。群馬の後、出直すのは大変だろうと、「ならば」と活かし挟んでもらえた付録のふろくっだ。
植え込みが心地よいキャンパスに案内され、明るい階段教室での講義だった。半数強が女子大生だったので男子学生を刺激したくなった。まず偕楽園のある水戸での講義は初めてなので、と先楽園を話題にしたことはすでに触れた。
近く社会人になる人たちが対象だった。人生の旅路につく以上は、地図を持って出た方が良い。その地図には目標を入れた方が良い。問題は、どのような地図を選び、どこに目標を見定めるかだ。「大局着眼、小局着手」を薦めるように、話し始めた。
大げさに言うと、人は2つのタイプに分けられそうだ。どのような事態やヒントに触れても、自分の都合に合わせ、自分の補強にしか活かせない人がいる。男性に多い。
逆に、内面から己の刷新に活かそうとする人もいる。初潮や閉経、出産や月経のリズムなど、女性は自然の摂理に敏感にならざるを得ず、それが転換期には有利に働かせよいのではないか、と「幸島のイモ」のエピソードに想い馳せながら語った。
今にして思えば、余談だが、太平洋戦争では、敗戦という歴史的事実までを、大多数の戦争犯罪者はおのれの一儲けに活かしている。まず、それに棹を刺しそうなものは特攻などで死に急がせた。9月2日の国際的な敗戦日をないがしろにしている。体制の護持を主張したが、結局はそれはその翼の下で身を守り、敗戦のケジメを付けすに済ませている。だから、国民を2分化するような国際的後遺症まで生じさせ、未だに尾を引かせ、苦しめさせ続けている。
地図や目標を携えていないと、その場その場の出来事に振り回され、成り行き任せの前者になりかねない。私の場合は、小学生の時に、都会から自然豊かな田舎に移住し、7変人と言うまともな人と出会った。中学生の時に、結核菌にさいなまれ、一度死を見た。さらに成人期にも、私は内面から意識を変えざるをえない劇的な体験をした。それらに救われたような気がしている。今はうっかりすると、平和ボケにさいなまれかねないのではないか。
小学生時の軍国主義から民主主義への転換では、うろたえる大人と不動の大人を見た。問題は、うろたえた大人が、それ以前は胸を張り、支配者のごとくに振る舞っていたことだ。
次に、皆さんと同じ年ごろの時に、また社会の一転を見た、と語った。今度は農業国から工業国への一転だった。それは「もったいない」から「消費は美徳」へと価値観の転換だった。おかげで私は、転換が前提のような人生になった。
選ぶべき海図のありようぐらいは伝えることができたら、と願った。かくして、翌日から忘年会も組み込まれた恒例の2泊3日の関東出張に受け継いでもらえ、8泊9日の出張を楽しんだ。
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