脚のむくみを見て、心臓医はすぐに腎臓医のアポイントを入れ、明日にでも、となった。腎臓医は女性で、問診をとても大切にする人だった。事前のアンケートは3頁におよんだ。それを読みながら追加の質問が次々と加えられた。その1つが、遺伝性の質問だった。
父は、腎臓が「ボロボロだ」と言って、終生用心していた。「透析はされていましたか」「いいえ」。「そうか」たいしたことはなかったわけだ、と思った。
父と、父の生き方を、私は一面では「たいしたものだ」と思っている。戦中戦後の8年間を、布団の中で、闘病生活として過ごしながら、海外資産の凍結から始まり、10万円以上の預金に90%課税、新円に切り替え、あるいは物凄いインフレなどに耐え、家族を養ったわけだから。もちろん、母の農業や手内職も評価しなければならないが、それは父のことこまかな指図があっての賜物だ。
だが私は、父を2つの点でとても忌み嫌っている。1つは、何事もソロバンをはじいて計算したことだ。もう1つは、己の健康に余りにも神経質であったことだ。私の助言より、薬を信じた。
だから私は、大雑把な暗算は大事にしても、数字や機器を用いた計算はせずに生きたい、と思うようになった。と同時に、己の健康は妻に任せるなどして、自分で細かく管理はせずに、気力がある間は動きまわって過ごせたら、と願っている。
「そうか」とまた思った。気力がある間に、済ませておくべきことは済ませておこう。偉そうなことを言っても、過去に気力がなくなることがあったことを振り返った。だから、「一病息災」と、医者にかかかり続け、薬を飲み続けているのではないか。
良き時に「赤ランプ」が灯ったものだと思った。今のうちに手を打っておけば、私には簡単に済むことをなしておくことで、妻の思い出になり、ココロの支えになりそうことが多々ありそうだ。そうしたことを1つ1つ片づけておこう。それが同時に「ピンピンコロリの人生」に結び付けうる工夫になれば、一石二鳥だ。それも、アイデンティティの確立とその実感の一助ではないか。
かくして楽しく過ごした2週間だったが、その間に「案の定」とアキレタ話もあった。向かいのボッタクリ商法だ。1月8日に閉店するので「あと85日」「あと84日」などと日めくり式アッピールを始めていたが、「案の定」9日以降も、ますますカタリをエスカレーとさせて継続し、目をキョロキョロさせている。あの手この手とたいしたものだと思う。たいしたものだと感心しながら、気付かされたこともある。
余計なことに悩まされずに、と考えているうちに、暮れの注連縄づくりの折に余った稲穂があったことを思い出した。これなら、ノバトにもついばめるだろう。
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