フェイクニュースで世の中を振り回す手口は、今に始まったことではない、と承知している。たとえば、官庁や会社、あるは学校などの組織内でさえ、フェイクニュースで大勢の人を操り、上手に立ち回って権力を手に入れ、その権力でまず目障りなライバルを葬る。その上で、フェイクニュースに踊った大勢の人を好き放題に料理する。こうしたことは日常茶飯事だろう。
とはいえ、近代メディアの勃興時に、フェイクニュースで見事に世の中を手玉に取った新聞王がいたことを(NHK-TV『映像の世紀プレミアム』で)遅まきながら知り、驚いた。その男は、民衆はフェイクニュースを好んでいるとばかりに振る舞い、購読部数を好き放題に伸ばし、大統領選の趨勢も左右するまでになり、絶大な富と権力を手に入れている。
沖縄の世論を好きに操りたかったのだろか、沖縄の2大メディアを目障りとばかりに「つぶさなアカン」と画策した人たちがいたことを思い出させる一件があった。地元2大メディアは「何をしているのだ」と言わんばかりのフェイクニュースを流布したが、このたび誤報であった事実が明らかになった。「うかつでした」で済ませて良いことかどうか、気になる。
その間に、選挙などはなかったのか。それでなくとも沖縄では今、厭世観が広がるまでになっている。好ましき主張に賛同して投票しても、今の国は現実化させない。ならば国から補助金などを上手に盗って来る人を選んだ方がマシではないか、との風潮だ。
かつて、従軍慰安婦問題の報道で「悪質な誤報」「卑劣な捏送」とバッシングし、この際朝日新聞をつぶしてしまおうと言わんばかりの巨大なエネルギーがうごめいたことがあった。
私としても、当然、従軍慰安婦問題なんて皇軍にはあってほしくない。そうした思いの上に、経済的、時間的、視力的問題などから、購読紙を一紙に絞らざるを得なくなった時期があったが、朝日バッシング事件と重なってしまい、とても悩んだことがある。
このたび、その時に下した判断(その基準は、世界の目が見た日本のクオリティ紙評だが、それ)でヨカッタようだ、との気分にされた。当時、「悪質な誤報」「卑劣な捏送」とバッシングして、万の人々が原告となって朝日を訴える複数の裁判を起こしたが、このたびすべて朝日が勝訴の雲行きになった。高裁が下した朝日勝訴の判断に控訴せず、最高裁判断の下した朝日勝訴の判決などにくわえ、残っていた1つの訴えも、高裁で朝日勝訴の判断が出た。上告アリヤ。徹底的にやってほしい。
それをやらずに、別の手で、との策動をすでに始めていたのではないか、との疑問の余地を残してほしくない。共謀罪法の強行採決のことだ。かつて、「ナチスのやり方に学んではどうか」との話がったが、その2の舞だ。フェイクニュースで世論をかき混ぜ、「国家反逆だ」とばかりの世論を形成し、共謀罪法と絡ませる手だ。敗戦前は、臣民を救おうとしたあまたの人を「国家反逆」のとがで次々と闇に葬り、臣民を手玉に取り、原爆の犠牲にまでさせたが、その手がありうる。
「辛いなあ」と思う。あれほど朝日バッシングの尻馬に乗った紙誌やTVなどは、音なしの構えを保っているも同然だ。朝日勝訴の報道を、せめてバッシングと同じ程度の時間や勢力(解説など)を割木、ジャーナリズムの立場を強化すべきだ。それがメディアの真の使命だろう。
どうやらフェイクニュースはココロに作用する妙薬のようだ。ならば好ましき人生とは、その妙薬を心待ちにしなくてよいカラダに仕立てあげておくことではないか。大小はともかく身の程を忘れさせかねない権力は期待せず、所詮は借り物と自覚することではないか。
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