なぜか

 

 昨年、特攻出撃を幾度も命じられながら生き残った人がいた、と知った。「今度こそ勇ましく死んで来い」と卑劣な扱いを受けながら、生き残った人だと思い、「このような人が、一人でも日本にいてくれたらのなら」と奇妙な希望を抱いて読み進んだ。だが、その想いは裏切られた。卑劣な想いが卑劣な命令を下させており、その隙間に生き残る余地があったようだ、と見て取った。

 敗戦後、多くの日本人が満州や朝鮮半島から日本に引き上げたが、現地の人に助けられて無事に帰れた、という話を聞くことがある。もちろん逆に、その何倍もの日本人が、現地の人に殺されたり、襲撃を怖れて自決したりしたと聞く。要は、無法状態だったのだろう。

 その無法状態の下で、満州や朝鮮半島で付和雷同せずに、日本人を守って逃がした人はどのような人だったのか。守ってもらえた人はどのような人だったのか。仮に日本が、逆に立場であったとしたら、同じような行動をとり得ていただろうか。そのような想いを馳せている。

 AI時代への備えを気にし始めている私にとって、雑多と多様の峻別も含め、峻別能力を伴った状況判断能力こそが、AI時代への備えの大事な1つの要件だと思われるだけに、気になっている。

 台湾は複雑な国だ。10幾つかの原住民(日本列島ではアイヌ人など先住民に当たるが、現然と生きてい存在し続けている)、歴史的渡来人(日本列島では日本人と自称してきた私たちに当たる)だけでなく、大日本帝国軍と入れ違いに進駐した中国(蒋介石)軍一行が住みついている。そうした複雑な環境のドサクサの中を、地元の人に守り通された日本人の銅像があった。なぜか。

 この人こそ、「このような人が、一人でもいてくれたらのなら」との想いを満たせてもらえる人ではないか、と期待している。そこに、松浦武四郎のようなココロを期待している。