言葉の難しさ
 

 「このトタン、使ってよろしいか」と問われ、「どうぞ」と答えた。それが「焼け焦げたトタン」にしてしまった。この小事件をこの度思い出した。

 「ムッ」と私はなったが、「『使ってよろしい』と言わはりました」と切り返され、黙し、その後は対話を減らした。「それはあなたの解釈だろう」と言いかけたがやめてしまったからだ。「もったいない」時代のココロと、「消費社会」のココロのすれ違い、と片づけてしまった。

 その時に、「郷に入っては郷に従え」とはよく言ったものだと思った。文明は、この郷の大切さを見失わせる装置だろう。要は、郷が形作って来た文化の問題であり、その尊重是非の問題だろう。

 たまたまこのたび、ある人と、AIに関する意見を交換する機会がった。

 汎用型AIロボットの開発が、文化まで生み出す能力を携えるようになるかもしれない、と思っていただけにだけに、そのような想いをある人にメールで寄せた。

教育者であるあなたは、AI時代に羽ばたける人を育てなければなりません。
AIの進展、普及、ないしは繁殖に、十分神経を払わなければならず、大変ですね。

AIも、特化型と汎用型に分けて考えて、
特化型は,巧妙な道具と見て、私はいかに使いこなすべきか、と考えています。

問題は、汎用型AIです。
状況判断や、情緒なども独自に加味出来るロボットも造れるかもしれません。
これは環境技術と同様で、2つに分けて付き合いたく思っています。
悪しきプログラムが刷り込まれないか、要注意、というわけです。

現社会システを改めずに、工業文明のご都合に合わせる汎用型AIには要注意、ということです。
工業文明の弊害除去に、あるいは緩和に供させようとする、では好ましくない。それは、
問題をより複雑にして、先送りに供させるに違いないからです。
同様に、iPS細胞の活かされ方も、心配です。

工業社会は人間を、ホワイトカラーやブルーカラーなどに分解しましたが、
これら分解された人は、特価型AIロボットが生を出するまでの代替品のようにされました。当選、汎用型AIの代替品であったかのような、苦渋も待ち受けているかもしれません。

私はそうしたことを心配して「VIBGYOR-COLLAR になろう」と呼びかけてきましたが、
汎用型AIロボットをこのVIBGYOR-COLLARのココロを備えたら、どうしよう。
私は今、道具と機械の峻別を今こそ真剣に試みるべき時ではないか、と思っています。


  

「焼け焦げたトタン」