「アイトワ塾」がなくなった
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30年近くも前に「第4時代到来論」に興味を示す人たちがいた。拙著『ビブギオールカラー ポスト消費社会の旗手たち』の読書会を、月に1度の割で開催することを望む人たちである。その後、読み切るのに2年を要し、その間に誕生した「次著も」となり、この集いは次第に体をなした。冬に1度は夫婦で、夏に1度は家族連れで集い、さらに年に1度は泊りがけの合宿も、となり「アイトワ塾」としての姿が顕わになった。 次著は、ポスト消費社会が容認する企業の姿を著した『人と地球に優しい企業』だった。人と地球に優しいということは、自分たちには厳しいが、それが従業員の誇りとなり、経営者には自信を抱かせ、社会には存在意義として知らしめ、真の繁栄を誇り得る秘訣、と訴えた。 さらに2年後。この自分たちには厳しい企業が真の繁栄を掌中に納める一例を詳述した『ブランドを創る』。「ならば、これも」となり、その後もほぼ2年おきに著わした拙著の読み会が続いた。 処女作の副題は「ポスト消費社会の旗手たち」だったが、誕生した1988年6月と言えば、まさに日本は消費社会に酔いしれ始めた頃で、「バブル」という言葉がはやる前夜。日本中が舞い上がりかけていた。そうした世の中にあって、工業文明の崩壊を必然と見て、次代(第4番目の時代)を切り拓こうとの呼びかけた拙著に耳を傾ける人は、例外的存在だった。 工業時代(原始時代に始まり、農業時代に次ぐ第3番目の時代)はイギリスが切り拓き、羽ばたいたが、第4番時代はわが国が切り拓き、羽ばたこう、との呼びかけである。 工業時代は、地球を無限のごとくに見て、地下資源の開発や植民地政策に沸いた。第4時代は地球の限界を知り、閉鎖空間と認識しなければならない。鎖国という閉鎖空間で繁栄した江戸時代を誇るわが国は、第4時代を切り拓くうえで最も恵まれた大国、と私は今も感じている。 とはいえ当時は、この「第4時代到来論」に耳を傾ける人は、例外(大げさに、国士と見て下さるような人)を除き、稀有な存在であり、山上憶良ではないが、アイトワ塾生は私の目に「宝」のように思われた。 実は、この一文は、2番目に勤めた中堅企業で、大好きだった社長に宛てた「白書書」として記し始めている。いわば恩返しのつもりで、仕事の合間に記し始めた。 私の社会人生活は商社勤めから始まったが、「ある夢の現実化」を願って辞めた。だが、チョッと早計な一面があったことに気づかされ、思案していたが、拾ってくれた人であり、社長室長にしてくれた人である。拾ってもらった時の約束、いわば私のミッションが果たせた時に、恩返しを構想し始めたわけである。つまり次の目標設定だ。 時あたかも世の中では、バブルの前兆現象(地価高騰)が露わになり始めていた。そのころから社長と社長室長の意見が相反しはじめてしまった。 私のミッションとは、あるジンクスを打破であった。同業界では年商500億円が限界とされていたが、社長はその倍増を願い、そのお手伝いすることであった。幸いなことに、7年にして最高の収益率を誇りながら、これを達成した。ここで、どっちを向いて突き進むべきか、で意見が分かれた。社長は3000億円計画に執心し、私は「次代に備え」て「新体質に刷新すること」を標榜した。 狂い始めた日本の捉え方が、社長と社長室長の間で真っ逆さまであった。私には3000億円計画がいかにも不健全に思われた。短絡に言えば、社長は利益を目的に据えていたが、私は利益を企業繁栄の手段と位置付け、その増大を企業の健全性を計るバロメーターにすべき時代、と見た。 そこで私は仕事の合間をいかし、建白書を記し始める。 会社にはまだワープが(総務部に)1台しかなかったが、私は秘書に連日のごとくタイプ室に出向かせ、割り込んで清書をしてもらい始めた。なんだか立場を活かして横柄なことをさせているかのように気がし始め、いかにも居心地が悪く感じられ始めた。そしてついに、その時が来た。 「また森サンだけが反対か」と3度にわたって社長を嘆かせたが、その日に辞表を記し、翌日から出社せず、謹慎した。その後1度出社したが、社長が希望する「年収と、ポジション」を訪ねた。私は社長が方向転換することを求めていたので、「そんなものはいりません」と応えたように思う。 建白書の原稿や私物を送り届けてもらい、執筆に没頭する日々となった。まず「次代に備え」る必要性から訴えることにした。それが「第4時代(ポスト消費社会になると見た)到来論」であり、ポスト消費社会の旗手・ビブギオールカラーを標榜すべき、との提案であった。 第4時代が容認する企業の姿(新体質に刷新する必要性)を著すことを後に回した。 次著に手を付け始めた頃には、辞した企業の新たな体質が露わになりつつあった。年商こそ増やしたが、辞した翌年度から経常利益を半減以下にしており、それが恒常化していた。 そこで、「どっちを向いているンだ」と叫びたくなり、その中堅企業で私がいかなる動きをしていたのか詳述する一著をしたためた。『ブランドを創る』である。これは、見本刷りを社長に贈った。 自分たちには厳しくとも『人と地球に優しい企業』を目指して足掻くことが、企業を真の繁栄に導くことを(少なくともその方向に誘う一例を)詳述した。バブルはすでに弾けていた。 この2年前の1990年に『人と地球に優しい企業』を著したが、その1章にオランダで生じた有名なバブル・チューリップ事件を取り上げている。土地騰貴の不健全さを訴えたわけだ。だが、社長は株式などの手じまいをせず、大損を出したようだとの噂が聞えて来た。 なにせ日本は狂っていた。「日本を1つ売ればアメリカを4つ買える」とか、「最早、欧米に学ぶものナシ」と豪語する人をもてはやした。『Japan as No.1』とのチョウチンを「さもありなん」と受けとめもした。「環境でメシが食えるか」とか「きれいごとでメシが食えるか」と息巻く人を社会はのさばらす方向に進んでいた。 もちろん、私はきれいごとを並べるだけで、思いあがっていそうだ、と気にしていた。それだけに、「ある夢の現実化」を願った私生活に傾注している。「第4時代到来論」は企業社会と個人生活の総体が織りなす新時代の標榜だが、いわばこの両輪の一方を実証したかった。「第4時代」が容認する豊かさの追求は、自己リスクで実践できる。それは清豊の追求である。一人ぐらい日本に、この実践者がいても良いだろう、と考えて立ち向かった。いわば青臭い空論が描く「未来がほほ笑みかける生き方」を実践して見せるサギュだが、アイトワ塾生はその生き証人である。 この間に、4著目としてポスト消費社会での輝ける生き方のヒントを『このままでいいんですか もうひとつの生き方を求めて』で著わしている。この編集に当たって下さった人は、このたび「生き物はどこから来て、どこへ行くのか」を著す『進化論物語』の著者・垂水雄二さんで、多くのことを学んでいる。 もちろん私は、常に2つの不安を抱いていた。なにせ、この『第4時代到来論』は、特殊な視点が捉えて兆候から導き出していたからだ。 商社で私は1966年に、構造的不況が露わになった繊維部門の再興策を提唱し、採用してもらったが、丁度そのころに、世界の服飾現象は大変動をきたし始めていた。仕事柄、4半世紀にわたって世界の服飾変化を定点観測することになった。この定点観測から、いわば疫学的な手法で導き出した予見があった。それが「第4時代到来論」である。それだけに検証が求められるし、間違いが生じるようなことがあれば即座に反省し、軌道修正なり抜本的見直しが求められることを覚悟していた。 近代社会は服飾に二面性を露わにさせた。肌の上の飾り物としての一面と、肌の延長としての一面を併存させるようになった。この両面の観察と考察を重ね、いわゆる「見えざる手」が誘うであろう未来と一緒に読み解こうとしているうち、第4時代のイメージが瞼に露わになった。 マズローの「欲求5段階説」に触れ、やがてコリン・ウイルソンの『至高体験』に興味を抱いたが、そのおかげか、矛盾に富んだ「ヒトの姿」が次第に解き明かせそうに感じられた。 姿ある「ヒト」はいわば船であり、真に見据えるべきはこの船を操る「船頭」である、と気付かされた。だから当時、関連書籍を探すのに苦労したが、脳のありようを掘り下げ、処女作でヒトの三層構造の脳を取り上げている。人間が爬虫類時代に携えた脳の部分と、霊長類となって発達させ、ヒトに進化して肥大化させた部分があることに注目し、この2つが織りなすせめぎ合いに触れている。 他方、自己リスクで実践できる「第4時代」が容認するであろう私生活にも傾注した。それは、古人の知恵と近代科学の成果物を掛け合わせて編み出す豊かさの追求であり、これがもう1つの不安解消の模索であった、といってよい。 工業社会はすべての人に「欲望の解放」を可能にし、いわばその指数のごときGDPで豊さを推し量るようになった。現実に、ゴミの量を豊かさの指数のごとくに考える学者も生み出していた。だから、GDPに正比例して環境破壊や資源枯渇が進んだ。私は、これに代わる豊かさや幸せ感の方にこそ価値を見出せそうに思った。そしてそれを「人間の解放」と見ることにした。それが普遍化に値するのか否か、を問い続ける所となった。いわば、「欲望の解放」という禁断症状からの解放である。 ということで塾では、一度処女作を読み直し、検証している。万が一、第4時代を読み損ねていたら、塾そのものの存在意義が問われかねない。幸か不幸か、この間にバブル現象が崩壊しており、ほどよき月日が経過していた。すでにポスト消費社会現象を露わにし始めていた。百貨店の凋落はもとより、つぶれないはずの企業がつぶれたり統合合併を繰り返したりし始めていた。 検証結果、ありがたいことに不都合な記述は1箇所にとどまった。それは、下着の二面性を掘り下げた箇所であった。船である「ヒト」は、「船頭」である三層構造の脳に操られるが、ヒトの二面性を掘り下げる上で、時代はおのずと下着を重要なテーマにしていた。そして、拙著でのその透視は妥当であった。だが、「その後」の見通しを掘り下げられておらず、記せていなかった。企業勤めから離れていたので、男が1人で行うには観察が気恥ずかしいテーマであったせいだ。 妥当であったとは、その二面性が露わにする確かな現象がすでに顕在化していたからだ。アメリカの百貨店を皮切りに、女性下着に広大な売り場面積を割くようになっており、「Intimate wear」なる名称を与え、新たな概念を強調し始めていた。 それはともかく、幸か不幸かでいえば、この検証時から塾に不幸な一面を私は見出し始めていた。この検証課程で、私が一番期待していたことが成し遂げられなかったからだ。また、次のテキストとして『庭宇宙』を紐解き始めたが、中断せざるを得なかったからだ。これは、ハウツー的には活かしようがない内容であり、いわば「人間の解放」を願うココロの模索である。 私が一番期待していたこと、とは何か。それは、1つの気付きである。処女作は、私なりの文明論であり、工業時代に次ぐ時代を創出する必要性の提唱だった。その下りで、農業時代の終焉にも触れており、農業社会が必要とした「奴隷」の解放問題にかなり力を割いている。イギリスに始まり、フランスに、次いでアメリカに、と伝播したことを指摘している。 工業文明の進展は、農業文明が必要とした奴隷が不要となったわけだ。これを社会は「奴隷解放」と見たが、塾生には第4時代の視点で見直すセンスを身に着けて、「奴隷追放」であった、と読み替えてもらいたかった。だが、それがかなわなかった。 工業時代は奴隷に代えて金労働者を必要とし、ホワイトカラーやブルーカラーなどと次第に専業化・分業化を進め、スペシャリストと呼ぶようになった。この工業社会が生み出すことになるスペシャリストを、ウイリアム・モリスは「古代の奴隷や中世の農奴よりも惨めな賃金労働者」と予見していた、と処女作では強調している。さらに、工業社会が推し進めた「開発」は、未来から見ると「破壊」であったと読み替えられるに違いない、とも指摘した。 時あたかも、世の中ではリストラが問題となっていた。特化型AIロボットの進展がスペシャリストを不要にしていたわけだ。だが、スペシャリストはリストラを「解放」と見てとることができなかった。現実問題として社会ではそのころから「ホームレス」や自殺者を増やしていた。 奴隷は、職場からの追放を解放と捉えたが、給与所得者は職場からの追放を解放とは受け止められなかった。それはなぜか。この実態や実情を塾生が掘り下げ、本質論を挑んでほしかった。さもなければ第4時代の魂や、「ポスト消費社会の旗手」たるビブギオールカラーの本質に迫りにくい。 実はその後、私は短大に勤め、10年にわたって1000人の女子学生と直接接している。その間に「先生、コンビニなしに生きてゆけるのですか」との不安の声を上げる人が増えていた。サラリーマン時代に「流行の奴隷」という造語をつくった私だが、さすがに「コンビニの奴隷」には驚かされた。 それはともかく、工業時代が不要にした奴隷は、自然豊かな時空で闊達に「生きる力」を有していた。だから「追放」を「解放」と受け止められたのであろう。 やむなく私は、「折を見て、また(処女作の)検証をし直しをしましょう」で終えた。 結局、中断した『庭宇宙』をはじめ、『庭宇宙パートU』や『エコトピア便り』なども紐解けぬままに終わった。世の中では、工業文明の崩壊を最早必然と見る声が賑やかになって来た。工業文明の崩壊を前提にした次代創出論にアイトワ塾生は素早く関心を示した人たちである。いつしか私は、最澄は「一隅を照らす、これ国宝」と語っているが、「第4時代到来論」に30年も前から感心を示し、今日に至った仲間を国宝かのように感じ始めていた。 「記憶」と「記録」は違う。「記録」とは残酷なもので、「記憶」を木っ端みじんにする力を持っている。この30年前にしるした記録を「アイトワ塾」で今一度青臭き心で再検証し、その是非や可否を喧々諤々したかった。これなき集いは「アイトワ塾」でありえない。敬老会のごとき集いにするぐらいなら、この仲間を私のココロの中で、宝のごとき存在のまま留めておきたい。 |
国士と見て下さるような人 |