飛び切り嬉しい報告

 

 28日水曜日のこと、ポケットの子機が鳴った。「咲子さんが訪ねて下さった。お子さんたちと」と妻から内線。そして「そよご(冬青)のハチミツを下さったの」と続いた。

 テラスに急ぐと、飛び切り嬉しい報告が待っていた。前回咲子さんに紹介した「オシメなし育児法」に関する「その後」のことで、「できました」から始まる経験談だった。

 前回は、この育児法の実践者である橋本ちあきさんを迎えて間なしのことだった。ちあきさんは5人の子どもを、人里はるか離れたところにあった自宅でもうけた人だが、助産婦の手も借りていない。5人の内の2人は、夫・宙八さんも留守で、1人で産んでいる。かつて聴いた助産婦や医者の手助けナシの出産談に加え、このたびは新たにオシメなし育児体験を聴いた。

 体験で終わらず、末子で完成の域を実感できた、との経験談は、おのずと話題を認知症問題にまで広げさせた。間違いなく、「オシメに頼らずに済む老後」を迎え易くする育児法だろう。と同時に、「心身の免疫力」を授けておくうえでも有効ではないか。

 この記憶や感動が冷めやらぬ内に咲子さん母子を迎えたこともあって、「この人なら」「もしや」との想いも込めて、紹介した。それに対する結果報告だった。

 「できました」だけでは終らず、その過程で、母と児の間に生じる「生の絆」「本来の絆」(と私は感じた)を体験したこと。さらに、そのありようを2人の兄が見守っていたが、何かを感受したようだ、と知らされた。

 「それは素晴らしい遺産ですね」と思わず口走り、「母が児に残しうる素晴らしい遺産だ」と付け加えた。冬青チャンをはじめ、この3兄弟が成人するころは、世の中の事情は今とは大きく変わっているはずだ。「紙おむつなど夢のまた夢」などと言った次元の話ではなく、「人間の定義」そのものが問い直される時代(汎用型AIロボットが街を闊歩しているかもしれない)になっているのではないか。

 ある一面から見れば悲惨な話になりそうに聞こえそうだが、他の一面から見れば「新・真パラダイス」になっている可能性がある。その新・真パラダイスを謳歌しうる人づくりをボツボツ意識しておいてもよい頃ではないか、と私は想い始めている。

 あの後、咲子さんは良きタイミングを活かし、ちあきさんから直伝してもらい、そのうえで実施していた。ちあきさんの2人の娘は(マクロビアンの)レストラン・TOSCAを経営していたが、過日(この2人が次のステージに進むことになり)店じまいした。その閉店記念日に訪れ、この育児法を話題に出し、仔細を学んだようだ。紹介した甲斐があった、と嬉しかった。

 近き将来、「オシメなし育児法」は母子の絆づくりにプラスに働くだけでなく、稀有なプラス要因が認められるに違いない。きっと、汎用型AIロボット時代への対応策の最右翼であった、ということが明らかになるはずだ。なぜなら、人間の生体と汎用型AIロボットという超精密機械との決定的差異を助長する上で、最も有効な育児上の有機的手法である、と思われるからだ。

 逆に、幼児の個性とは関係なしに、一様に適応できる育児方は、人間の汎用型ロボット化に等しかった、ということになりかねない。

 要は、ロボットとの付き合い方の問題だが、ロボットを使いこなす人になれるか、ロボットの世話になり、ロボットにあやされかねない人になるか、の分かれ目になりそう、と思われてならない。

 昨今、貧富格差の拡大が世界的問題になっているが、そう遠くない未来は、次元を異にする格差問題が用意しているに違いない。その折に備えて、いかに生身の人間はそれに備えておくべきか、の課題であろう。たとえば、パンデミクスに備える上で、「オシメなし育児法」は主としてココロの面で、母が児に残しうる最も好ましき遺産であったことが明らかになるに違いない。

 それはともかく、咲子さんの報告を伺いながら、なぜか私は過去を振り返った。ちあきさんが、夫の手助けも受けられずに独力で出産しなければならない事態に追い込まれたときのことだ。

 「宙八さんはキット、『犬でさえ1匹で生んでいるんだ』と言ったンでしょう」との一言が私の口から滑り出た。妻を同様の立場に追い込んでいた可能性があっただけに、我ごとのように感じたのだろう。キット私も同じような状況に立たされたら、こうした捨て台詞を残して妻を一人にしていたに違いない、と思ったからだ。その時のちあきさんの返事は「だいたい、そういうことです」であったように記憶する。この時も、妻と一緒に3人で語らっていたように思う。

 この思い出話を、なぜか咲子さんにも披露した。咲子さんは「(私の)夫も、そういう言葉をはく人です」と語った。その目がとても輝いていたので、私は心をなでおろしながら、いつの日にかこの3夫婦で会したいものだ、と思った。