3カ月ぶりの通院日

 

 前回は1月だったが腎臓の衰弱問題で6回も通院しており、これが油断させたようだ。次の通院予定日(のカレンダー記入)を失念。薬の減り具合で気付いた時は後の祭りだった。

 新たな予約(電話での窓口手配)は1カ月ほど先、と日程が決まった。「さて、どうするか」、この失策をいかに生かせばよいのか。担当医、あるいは病院は、こうした患者の失策に対して、窓口にいかなる対応をさせるべきかなど、いろいろ考えた。要は、汎用型AIロボット時代になる前の「傾向と対策」の問題だ、と思う。

 なぜか、亡き父を思い出した。薬や病院の信奉者であった父は、こうした失策を犯さなかったし、おかせば大騒ぎをし、「薬がなくなりました」と自己申告したことだろう。だが、私はできなかったし、妻はゴチャゴチャ言ったが、しなかった。それは、戦時中の混乱期を、なんとか医療問題を経済力で乗り切った父の姿に辟易していたからだろう。唯一といってよい父の悪いイメージだ。

 姉(医者への支払い担当だった)によれば、1か月分の対価が、当時の1人分満額預金であったらしい。その対価をとる医者も医者だが、その医者以外は父(結核と糖尿病併発)を見放していた。病院は(傷病者であふれ)それどころの騒ぎではなかったらしい。なにせ(近年知ったことだが)、被爆後の広島では、戦場に送りだす可能性のありそうな若者しか救済しなかった、という時勢だった。

 当時の1人分満額預金とは、政府が敗戦後に採用した国民の収奪策だ。10万円以上の預金を実質的に取り上げるような課税策(?)を打ち出し、預金封鎖のようなことをしたようだ。これに対抗し、父は親せき縁者の世話になり、多くの名義を借りて数多くの預金通帳を用意。幾分かは小分けしておいたようだ。といっても、口座数はたかだか2桁の、それも指折り数えられる程度であったと思う。毎月、その1つ1つを崩して支払う役目を負わされた姉(15〜16歳)は、さまざまな矛盾を感じたのだろう。預金封鎖(?)後、政府はタンス預金は新札発行と証紙添付の義務付けで、さらにものすごいインフレを生じさせ、紙幣を紙切れ同然にした。そうした時代を経ながら、父は母と違って、人生観の人で終わり、ついに死生観に感心をむけなかった。だからだろうか、姉は女学校を出ると、キリスト教に帰依し、洗礼も受けた。

 3カ月ぶりに通院すると、予定に入っていなかった血液検査の手配ができていた。腎臓以外に1〜2の注意があったが、「大丈夫でしょう」と聞かされた。私の目には、病院の対応は合格。電話(予約変更担当)応対者は、せめて「それまでお薬はもちますか」などと問うべきだが、問えなかった。おそらく汎用型AIロボットに取って代わられかねない。