国家の私物化
 

 副総裁は、開き直ったかのごとくに、福田前「事務官ははめられた」と言わんばかりの発言をくりかえした。その発言は、反原発派だった知事の一件を思い出させた。この知事にこそ開き直ってほしくなった。江戸時代のエピソードを垣間見るような気分にされたていたからだ。吉原ではその昔、しばしば心中事件が生じたが、この独身知事はそうした事態に結び付きかねないような思いを寄せてしまっていたのではないか。だから逆に、悔しさと恥ずかしさがないまぜになったような思いにされ、素直に辞任したのではないか。

 そう思うと同時に、お転婆の語源も思い出した。オランダ語に「オテンバー」という言葉があり、「手に負えない」「手玉に取られる」と言ったような意味であるらしい。だから、独身知事は手に負えない女に行き当たり、手玉に取られたのではないか、と勝手に同情し、「バカモン」と叫びたくなった。副総裁のように「ナチスのやり方に学べ」ではないが、「セクハラ罪という罪は存在しない」と言ってのけるぐらいの恥知らずになれ、と言いたかった。

 「セクハラ罪という罪は存在しない」と副総裁がのたまい、政府が閣議決定したという。なんという堕落。卑劣。恥知らず。それを言うなら、いっそのこと「この日のために、俺たちは、セクハラを犯罪と規定する法律を作ってこなかったンだ」と開き直ってほしい。

 もっと正直に「立法権を付与せれている俺たちは、憲法に縛られている立場なンだ」その「憲法に基づき、刑法など法律を用意する立場を、お前たちがワシ等に与えたんだ」「だから、わしらを縛る法律は造ってこなかったわけだ。だから、セクハラ罪という罪は存在しない、と言ってのけられたんだ」と言ってほしかった。さらに加えて「憲法に、セクハラを罪悪視している条項はあるのか」と、開き直り、「ある」と切り返されたら、だから「憲法そのものを変えたいんだ」と開き直ってほしかった。

 「個人の尊重」をないがしろにする憲法に改めて、憲法の変えグセを国民に着けさせ「おれたちが思う美しい日本」にして見せたいんだ、と訴えてほしい。人間の尊厳や身体の安全にかかわる権利の侵害、あるいは人格権の侵害に当たるこのたびの福田前事務官のありようをチャラに得切る憲法に改めるためなんだ、と本音を明らかに言ってのけてほしかった。

 「ウミを出し切る」「李下で冠を正さず」などと総理は叫びながら、真実を明らかにするために国会招致を希望した愛媛県知事の願いは跳ね付け、逆に、真実を明らかにするために国会招致が不可欠の総理夫人や加計理事長の招致要請には断固応じない真相と同じだろう。

 その同じ意識が、「生き方改革」お発送させており、そこに「一筋の光明」を見出させているのであろう。この発想は、太平洋戦争前夜の、あるいは敗戦が露わになった時期の政権があらわにした発想を思い出させる。戦略の欠如を戦闘で埋め合わさせようとする発想だ。つまり、「一億玉砕」との標榜や特攻作戦の採用とそっくりではないか。本来は、「生き方改革」が求められているにもかかわらず、今日の政権は戦略の欠如を棚に上げ、戦闘員に負担をかけることで切り抜けようとしている。ズルズルと引きずり込まれたしまいそうだ。