3泊4日の台湾
 

 関空出発組だけでなく、中部空港組と羽田組が台北で参集。その後、数名の離合集散メンバーも含めると総勢25人と触れ合う旅になった。専用の大型観光バスと、台北と台南間は新幹線で移動する有意義な強行軍(植民地時代の名残が残る遺跡を主に10カ所以上訪問し、台湾料理の老舗や新名所での会食など)だった。おかげで日本人の美点の数々に気づかされる旅になった。つまり、いにしえの日本精神に触れる旅になった、と言ってよい。

 実は、311の時に、台湾から200数十億円の義援金が寄せられたが、その大部分200億円以上が個人献金であり、中国や韓国の義援金と比し、桁違いだった。その格段の差をつけた謎にも興味を抱いての参加であったが、それは植民地行政に当たったリーダーの意識の差がなせるわざではないか、と気付かされた。その気づきをより一層深めたのは帰国後のことになる。

 余談だが、時が時(「美しい国、日本を取り戻す」を繰り返してきた首相のぬぐい切れない疑惑、財務相の許されざる無責任と厚顔、あるいは高級官僚の信じがたい堕落や不誠実)だけに、この気づきは憂鬱な気分にした。台湾で教えられた「いにしえの日本精神」とは、ウソをつかない、不正なお金の授受に関わらない、自分の失敗を他人のせいにしない、そして卑怯なことをせず、与えられた仕事に全力で取り組む、だった。この模範を台湾での行政者は示したようだ。

 旅は、機中食を終えたかと思う間もなく、予定通りに11時30分、台北の桃園空港に到着。ガイド歴30年のベテランに迎えられ、観光バスの人になった。その道中で、車窓から台湾の3大建物の1つと聞いた「圓山大飯店」を望んだが、それは日本統治時代の台湾神社跡地に建てられたことを知り、この旅の意義を心に刻む最初の事例のような気分になった。

 投宿するホテルでは荷を下ろすにとどめ、早速国立台湾博物館に案内された。地上3階建て、地下1階の旧児玉総督&後藤民政長官博物館であった。かつて(日本が領有した人口約300万人当時)は閑静な街並みに位置していたのだろう。この(往時の日本の権勢がしのばれる)建物のロビーに一歩足を踏み入れると、正面に、2階に至る左右に分かれた立派な階段が目に飛び込んできた。手前左右には2つの大きなファザードのような空間があり、そこにはこの2人の立像が立っていたという。今は像に代わって大きな壺が飾られている。その脇左右に一階ギャラリーに至る廊下があった。ちなみに、像は破壊されておらず、本省人の手で守られている、という。

 ロビーでの再集合時間を確認しあい、解散。めいめいは自由に回廊に踏み込むことになった。台湾の歴史と自然史の博物館と見たが、先住民である少数民族の説明が行き届いているように思い、好感を抱いた。我が国やアメリカを始め、多くの国々でもこうした博物館を訪れるようにしてきたが、先住民の扱い方がそれぞれ異なっており、そのありようがそれぞれの国民性を推し量る良き「よすが」と私は思っており、注目してきた。この博物館で見た少数民族の扱いにとても好感を抱いた。

 ガイドのワンさんは、投宿ホテルである和逸台北忠孝館に至る車中で台湾の概要を紹介したが、面積は九州(よりやや小さい)程度で富士山より高い3座(最高峰は3,950mの玉山)を含め3,000m級の山が164あり、7割が山地である。そこに人口2,350万人(中国大陸の人口の2%に満たない)が住まい、その内訳は少数民族(14種族)2%、本省人(400年ほど昔に福建省から移ってきた漢民族が主)86%に加え、外省人(蒋介石が引き連れて来た)12%が暮らしている。

 最初の訪問先は台湾最古の寺院・龍山寺に到着した。喧噪の街並みの中にあったが、まず地鳴りのような合唱に驚かされた。賑やかな装飾が屋根を始め随所に見られる門をくぐると、線香の煙が境内はたなびいていた。拝観量は不要で、長い線香を1本与えられる。大勢の詰めかけた人たちに倣って線香に火をつけ、先に立てられている火のついた線香の間を探し、火傷をしないように苦労して立てた。

 境内は人出で埋め尽くされていた。跪いて手を合わせて、あるいは境内の随所に座り込んだ人は、両手に経典をかざして、さらに、それらの後ろに並んだ人は立って手を合わせ、いずれもが読経に余念がない。心もち体をゆするようにして、いつまでも続きそうな読経に熱心している。

 随所に龍の像が施された寺であったが、観光客はその人混みの中を縫うようにして三々五々拝観している。祈る人たちは、観光客などには見向きもせずに、無心のごとくに祈っている。中には半月状で朱塗りの2つの木片を床に落とし、「卦」を見るかのようなことをしていた。

 ホテルに取って返し、チェックインを急ぎ、女性たちは衣を整え、再集合。台湾料理の老舗「欣葉」本店を訪れ、夕食。美味で豊かな夕餉の後は、希望者は士林(シーリン)夜市の見学となっていたが、全員参加。観光バスは夜の街を縫って走ったが、道中には屋台のごとき食べ物屋を含め食堂がやたらと目に付き、いずれもが賑わっている。車中でワンさんは、台湾の一般的な人の生活様式上をかいつまんで説明したが、3度の食事は外食が基本で、家庭料理はないも同然、という。共働きが一般的で、通勤手段は男の多くはバイクだが、女はバスなど。

 バスを降りて徒歩で台湾最大の夜市の域に至り、集合時間を確認しあって、解散。夜市は、市というよりも、さまざまな様式の射的遊戯の屋台が軒を連ねる遊興横丁と言った方が適切。さまざまな射的遊戯や金魚すくいなどの間を縫って歩む間に、かつての日本の村祭りの沿道の賑わいを連想した。そうした沿道が3本ほど走る遊興域であったが、主に若者が集っており、子どもの姿を見ない。所々で果物などを売っている。かくして、興味津々の旅がはじまった。

 この旅は、岡田さん(古川勝三の著作を持参下さった)に誘われ、その気になった。その後、著者夫人がアイトワを訪ねて下さるという幸運に恵まれ、一も二もなく申し込んだ。ご夫妻は、共通する価値観や美意識でつながる間柄とみた。また、主たる参加者が失敗学会の面々であったことも幸いし、類は類を呼ぶかのごとき心地よい旅となった。

 関空でまず会したこの旅の仲間と機中の人となり、次いで桃園空港でと、次々と仲間と触れ合うことになったが、すぐに傾蓋の友のごとき親しみを覚えた。それもそのはず、失敗学会である。おそらく皆さん「人間は失敗を前提に過ごすべき生きもの」と思うだけでなく、「失敗を恐れず、それを糧に育つべき生きもの」と思っている人たちではないか。また、現場・現実・現出を尊重し、錯覚(思考停止など)を危惧する人たちであろう。そうした価値観がふりまく暗黙の了解のごとき安らぎを感じ取り、ともかく心地よかった。

 宿泊は岡田さんとの同室を望んだが、これもヨカッタ。お互いの短い睡眠時間が幸いしたようで、早朝は4時ごろからどちらともなく声をかけあい、さまざまな想いを語り合った。空腹を覚えたころに朝食のレストランフロアーに降り、バイキング。

 2日目は台北駅から台南を目指し、8時21分発の高鐵613号(台湾新幹線)で嘉義駅へ。車体は日本と、線路とシステムは仏独と組んだ産物で、今日に至る経過を学びながら車中の人を楽しんだ。

 真新しい感の嘉義駅でまず驚いたことは、駅舎が乗降客に比し「立派過ぎる」こと。それもそのはず「ここに故宮博物館内院」ができた、もしくはできるから、と知った。この旅には、故宮博物館内院になんとしても立ち寄りたく思う人はいなかったようだ。私も次の説明、七面鳥の鳥飯が名物の土地柄との話題の方にむしろ興味を惹かれた。

 駅舎を出て、次いで驚いたことは、炎天にもかかわらず影がなくなったこと。「北回帰線」だ。つまり亜熱帯から熱帯に入ることになったわけ。正午には影は完全に消えてなくなるわけで、暑さが余計にこたえるに違いない。

 台南の大型観光バスに迎えられた。すぐにバスは旧線の嘉義駅舎の前を通ったが、日本統治時代に出来た姿がそのまま残されている。古川先生は高雄日本人学校に赴任し、台湾で3年間過ごした人であり、その案内は人柄と相まって実に魅力的だ。

 この日の見学は嘉義農林野球部(KANOで知られる)の足跡を訪れることから始まった。バスを降りて、やがて緩やかで広く、両側に石灯篭が並ぶ参道に至った。日本統治時代の大きな神社の跡であったが、今は参道のはるか先に大きなモニュメントのようなものが望める。両脇に並ぶ石灯篭には当時彫り込まれたままの文字が残っている。この参道にそって広々とした公園があり、元は(KANOのメンバーも練習に勤しんだ)グラウンドではないか。参道の途中で右に折れたところに神社の元は社務所とおぼしき木造の建物があり、嘉義市史跡資料館になっていた。ここでは嘉義市が今日に至る足跡をかいつまんで学ぶことができる。

 日本が統治しはじめる以前の台湾には教育システムはなきに等しい状態であったという。また、マラリヤやコレラなどがはびこり、阿片が流行り、弁髪や纏足が見られたという。

 そこで、これらの改善に取り組むだけでなく、縦貫鉄道や縦貫道路を始め、水力発電所、病院、港湾、あるいは上下水道などを整備した。それだけでなく、教育システムも整備し、その一環として職業学校もつくることになり、その第1号が嘉義農林であった。

 嘉義農林の野球チームKANOが、今の夏の甲子園での高校野球に当たる「全国中等学校優勝野球大会」に出場した。他に、日本が統治していた朝鮮、満州、そして樺太からもチームを送ったが、KANOは勝ち進み、準優勝の成績を収めた。このドラマは昨年『KANO』として映画化され、有名である。

 KANOの代表選手は混成チームであった。4人が台湾の先住民族。主将で投手の呉ほか2人は、本省人(はるか昔に中国大陸から移住した漢民)。残る3人が日本から進出した家族の子弟であった。何の不思議もなくこの事実を受け止めたが、前日の博物館で見た先住民族の丁寧な紹介を思い出した。混成チームの9人は心を1つにして練習に励み、そのチームプレイが甲子園で見事な成果を納めさせたわけだ。

 呉は打ち続く投球で爪を剥いだが、「投げ続けさせてやりたい」と仲間だけでなく監督の近藤兵太郎も考えた。仲間は「直球で撃たせろ」と叫び、飛球を「いらっしゃい」と言って待ち構えたという。

 それは、日本が強要した日本語教育が台湾人の融和に思わぬ成果をもたらせた一例だろう。それまでは、それぞれ民族ごとに異なる言語を用いていたが、日本語を共通語として意思疎通が計れるようなったわけだ。KANOの選手達は日本語で意志疎通を計り、ココロを1つにしていたのだろう。とはいえ、この感銘と感動をもたらせたドラマの根本を、私は残念ながら、帰国後の朝日新聞の記事を通して知ることになる。


 

国立台湾博物館

内部

先住民である少数民族の説明

 

 

台湾最古の寺院・龍山寺

境内は人出で埋め尽くされていた

半月状で朱塗りの2つの木片を床に落とし

射的遊戯の屋台が軒を連ねる遊興横丁

嘉義農林野球部(KANOで知られる)の足跡

大きなモニュメントのようなものが望める

嘉義市史跡資料館

内部
 
   
 次いで専用バスで、当旅行の主目的と見ていた烏山頭ダムを目指した。最寄りに到着後、ダムを展望できるシラリヤリゾートという施設で台南料理を楽しむことになった。料理を待つ間に、期待のダムを一望したが、予期せぬダムの姿に、文字通りに仰天せざるを得なかった。

 この一帯は、台湾最大の平原だが4月から9月が雨季で、朝夕の6時に2度のスコール。10月から3月は乾季になる。雨季の半年は洪水に悩まされ、乾季の半年は干ばつに悩まされていたという。そして沿岸部は煙害に悩まされていた。この悩みを解消し、肥沃な大地に変えたのが烏山頭ダムである。当時、一帯の人口は3万人だったが、10万人分の用水計画であったと聞いた。

 当時は、セミハイドリック工法で造った世界最大級のダムであったが、この日、目の当たりにした光景は、満水時の2割ほどの水しかないダムの姿であった。異常気象による影響という。思わず仰天し、雨季にふさわしい降雨を願わずにはおれなかったが、ついに持参した雨具は用をなさなかった。

 台南料理の昼食では、とてもうまいチャーハンも食した。

 次いでダムの堤防を歩み、その中程で付帯施設に至る標高差50m余の階段を(帰途はこれを登るのか、と不安に駆られながら)下りたが、そこで古川先生も初体験という歓待が待っていた。堤防の下あたりの地中には巨大な2本の配管を収めるトンネルがあったが、その見学が許されただけでなく、延々と続く巨大なトンネルの最深部まで踏みこむことが許された。

 その過程で、八田與一が施した様々な知恵(溶接技術がなかったリベット時代。小石混ざりの水が猛スピードで流れる。こうした条件を満たして耐えさせる工夫)を垣間見た。いわゆる専門バカではなく、まさにビブギオールカラーの人であったのだろう。

 もう1つの歓待は、4本ある排水口の2本を(私たちの見学のために、異常渇水にも関わらず)臨時に放水してもらえたことだ。ゴウゴウと地鳴りのごとく吹き出す放水を眺めながら八田夫人を思った。外代樹(とよき)夫人は、敗戦後間なしの9月1日にこの放水路に身を投じ、命を絶った。

 夫・與一はさらに無念な死を、その3年余前に迎えている。南方開発要員として八田與一他わが国の選りすぐりの技術者1000人を乗せ、フィリピンを目指していた太洋丸が、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、膨大な量の牛肉の缶詰などの食料品と共に1941年5月8日に撃沈されている。

 私見を挟めば、この一事(2週間余前の4月18日にドーリットルの本土爆撃を体験しながら、分船させなかった油断と傲慢など)を知るだけで、日本は(「あわよくば」を願うがごとき)「勝てない戦方」を採用していたことが分かり、愛想がつきる。にもかかわらず、当時は望ましきジャーナリズム(権力の監視)を欠いており、国民の多くは勝てない戦争を歓迎している。たとえば、時の首相は、開戦前夜に株価暴落の悪夢を見ていたが、高騰している。結局、生き残った戦争遂行首謀者がいい目をし、国民は貧乏くじを引かされたような形で辛酸をなめた。

 それはともかく、次いで八田記念館を訪れ、その3度目の歓待に驚かされた。正門に設えられた電飾装置で歓迎の言葉が流れていた。さらに、常は地下倉庫にある八田與一の銅像の母型が運び出され、飾られていた。ダム、その付帯施設、そして記念館見学の後、八田夫妻始め幹部技術者が暮らした官舎(再現されている)を訪れた。この官舎の敷地(八田公園)に沿って走る二車線道路)は「八田路」と名付けられていたが、元はダム工事で用いた貨車用鉄道路であったという。

 こうした施設を見学しながら、昨年の群馬出張時を振り返った。富岡製糸場跡には若きフランス人技師に提供した居宅が現存するが、それと比べるとこの官舎は随分謙虚にして簡素に見える。

 もちろん、八田與一の銅像と、その後ろに建立された夫妻並葬の墓碑も訪れ、4つの面から感謝の手を合わせた。当人の業績、それを支えた妻、台湾で御影石を探し当て(大理石では有名な産地だが御影石には恵まれていないと聞いただけに)和式の墓石を設えた台湾の人たちの配慮、これらに加えて、こうした業績を遂げさせ、日台の人たちを融和させた上層部の判断に感謝した。

 いで、今も台南上下水道の父と尊敬される浜野弥四郎の足跡を訪ね、その銅像や改修中の台南山浄水場(改装復元中)を見学。その後、シャングリラホテルに取って返しチェックイン。夕食は李登輝元総統を始め、ほとんどの総統も訪ねた担仔麺発祥の「渡小月」で夕食。

 夜はライトアップされた赤嵌楼の見学。そこは、プロビデンジャン城跡であり、その赤レンガ造りの基礎部などにも触れ得たが、コンクリートがなかった時代に今も頑強な遺跡として保たれている。赤レンガを、砂と貝殻に加え、砂糖ともち米で接着し、今日のコンクリート以上の成果を収めた。

 この日、新たに「木瓜」という野菜を知り、得心した。西瓜、南瓜、あるいは冬瓜はよく知られるが、「木瓜」はパパイヤであることを知り、未成熟の実が売られているわけを得心した。また、成熟したパパイヤとミルクで作るジュースが優れた整腸(便秘対策)効果を有していることも学んだ。さらにガイドから、台湾はカカア天下の国だ、と教わった。夫婦喧嘩は、まず門口から茶わんなど食器が飛び出すことで分かる。次いで門口から夫が出てくる。そのころになると近所の人が椅子をもって集まり、ほどなく妻が現れ、聴衆に向かって意見をまくしたてる。それが一区切りし、聴衆が三々五々引き上げるころに喧嘩は収まる、という。私見だが、これは汎用型AIロボット時代への優れた備えになりそう、と思われる。

 3日目は、台南駅から高鐵617で台北まで戻ることから始まった。専用車で基隆に向かい、海の玄関口・基隆港を訪れた。ここは旧日本との主要連絡口であり、敗戦後に60万人の日本人がリュックサック1つと現金1000円だけ所持を許され、粛々と船に乗り込んで引き上げて行き、別れを告げる台湾の人たちに感銘を与えたという。その書類点検などにも当たった旧合同庁舎等も見学した。

 昼食は基隆で海鮮料理。午後は専用車で旧金鉱跡の街・九份を目指した。元は山沿いの地を9軒の家族が棲み分けていたようだが、金鉱が発見され異常に栄えた時期があった。この人間の性を見るかのごとき鉱山街の姿をレトロな名残として観光名勝にしているという。

 その姿が車窓に飛び込んで来た時に「さもありなん」と思った。宮崎駿がアニメ映画『千と千尋の神隠し』のモデルの1つにしたとの噂がある。やがて街の全貌が望めようになり、むしろそこに近代工業国のビル街との共通項を見出せたように思う。

 バスを降りて、急で狭くて長い階段を降り始めたが、「帰途もこの階段を…」と想像し、不安にさいなまれた。だがここでも帰途は、さらに下部のパーキング場にバスは先廻りして待っていた。

 かくしてホテルで身を整え、夕食は台北101・台北金融センタービル85階にあるレストラン「頂鮮101」の広くて豪勢な迎賓室「ジョニーウォーカー」の間で海鮮料理。紹興酒に加え、この旅では初めてワインにも手を出した。

 最終日は、専用車にトランクを積み込んで出立。二二八記念館の見学と、台湾大学(旧台北帝国大学)を訪れた。二二八記念館は、旧放送局跡が活かされていた。私は2度目の訪問だが、様相が一変しており、雰囲気はそれ以上に変わっていた。かつては何か「大変残忍な事件があった」ようで、いまだ「あからさまにできない」ようだとの印象で終わっていたが、大きく変貌していた。

 1946年4月25日に最後の旧日本人が引き揚げ。ほどなく民主の実現と人権の追求が始まった。1948年12月、国民党蒋介石政権台湾への移転準備に入る。1949年5月20日、再び戒厳令。この間の1947年2月27日に闇タバコ事件が発生。闇タバコを取り締まっていた役人が、闇タバコを売っていた(?)老婆を射殺。翌28日に動乱の火がつき、戒厳令が敷かれ、3万人とも4万人ともいわれる虐殺が始まり、多くの知識人などエリートが粛卿という名の粛清や鎮圧の犠牲になった。かくして台湾史上、かつてなかった抑圧と沈黙の世界に陥れられ、重苦しくて陰鬱な年月が経過。

 その後、38年後の1987年7月15日に戒厳令解除。翌1988年、李登輝(アイオワ州立大学、京都大学、国立台湾大学で就学)中華民国総統(- 2000年)誕生。1997年2月28日に二二八記念館に。この間の1975年4月5日に旧日本の陸軍士官学校出身の蒋介石が死去。だが未だに二二八事件の元凶は解明されていない。

 この後、国立台湾大学(旧日本の7番目のて帝国大学)を訪れ、台湾人に敬愛されるもう2人の人物の足跡を訪ねることになった。

 大王椰子並木が1.2kmも続くアプローチを歩み、本館の手前を右手に折れると、やがて瀟洒な木造平屋の建(旧高等農林学校作業室)にたどり着く。そこは「蓬莱米」(台湾の風土に適合したコメを開発した)の「磯永吉小屋」であり、その父と称せられる磯永吉と母と称せられる末永仁の息吹を今も感じ取れる研究室であった。

 帰途、この旅の仲間「失敗学会」の会員の一人・中尾政之(東大工学系研究科機械工学専攻)博士(工学)と語り合った(中央は古川先生)が、その話題が心に残った。それは、西洋に追いつき追い越し得たと思うほどの成果を収めた理由であり、同時に太平洋戦争でペシャンコにされたわけを探っていた時のことであった。

 たとえば東大。日本の智の頂点のごとき存在でありながら、工学や医学など実学を尊んだが、神学や哲学などを軽んじ気味であり、芸術部門を外したこと、も話題にした。

 もう1つ、大きな収穫があった。私にとっては聞き捨てならない旅行プランの紹介されたことだ。45年前に工業文明の破綻を見越し、次の文明の発祥をアジアに期待する私にとって、ダナンを起点にした1週間の旅行プランは魅力的だ。しかもプラン推進者が、台湾から引揚げた1人であり、8年間という人生で最も長い期間を商社の現地代表としてダナンで過ごしたという明朗快活な松村さんだった。

 ともかく、明るい旅だった、それだけに、リーダー次第で日本人の数々の美点は一転しかねないようだ、と気付かされ、危惧や不安の念を強く抱かされた。思えば、政治を自由に風刺できた大正デモクラシーから一転し、国民は特高警察におののき、数年にして貝のごとく押し黙る国になっており、太平洋戦争という負の歴史を刻んでいるではないか。この憂いは、共謀罪法や司法取引の採用などによって現在、再現しかねなくなっている。リーダー次第で日本人の良さは一転し、弱点にもなりかねない。

満水時の2割ほどの水しかないダムの姿

ダムの堤防を歩み

2本の配管を収めるトンネル

トンネルの最深部

地鳴りのごとく吹き出す放水

車窓に飛び込んで来た時

八田與一の銅像の母型

八田夫妻始め幹部技術者が暮らした官舎

夫妻並葬の墓碑

車窓に飛び込んで来た時

街の全貌

迎賓室「ジョニーウォーカー」の間

二二八記念館

台湾大学

大王椰子並木が1.2kmも続くアプローチ

旧高等農林学校作業室

磯永吉小屋

研究室

中尾政之(東大工学系研究科機械工学専攻)博士(工学)と語り合った(中央は古川先生)