ダナン出張報告
 

 このたびの旅行で、ベトナムにも「日本びいきの気風」が(台湾ほど、ではないが)流れていることを知り、1つの謎を解いたような気分になった。

 実は、過去に2度、ベトナムを訪ねている。そしてともに犯罪にあっている。最初はサイゴン(現在のでホーチミン)での子どものスリ。2度目はハノイの小さなホテルで、ホテルぐるみのサギの巻き添えだった。にもかかわらず、なぜか私はベトナムが好きで、このたびの旅行にも飛びついた。

 海外体験は他に数えきれないほどあるあ、他の訪問先では一度も犯罪にさいなまれていない。それは用心していたからに違いない。ベトナムでは2度ともに体験しながら、何故かベトナムが好きになっている。おそらく気を完全に許していたからに違いない、と半ば一つの謎が解け始めたような気分にされた。

 このたびの旅は、印象深い事象から始まった。2018年6月18日7時58分、関空で震度5強の地震に遭遇したことだ。だが、元アイトワ塾生・伴さんのおかげで、何1つ不自由せずに済んだ。数分場を離れた彼は、戻って来た時に、さまざまな情報を携えていた。震源地は大阪、ケイタイは不通、飛行機は予定通りに飛ぶが構内電車は不通。だから出発ゲートまで歩いて向かった方が賢明だろう、など。

 離陸時までに妻との交信が不能であれば、どうするか。交信できずとも飛び出すか否か。ココロの準備がなかった。私は、妻に無断で2度も会社を辞めた夫だが、それとこれとは違う、と思った。前者は、妻が大切にする「男の引け際の問題」でもあり、むしろ賛成してもらえそうと思ってのことだ。ところが、「これは、次元が異なる問題」のように思われた。前者は、夫婦が手を携えて生き抜く上でのエピソードに過ぎないが、後者は携えあう手の一方の存在自体の本質の問題だ。信頼に値する存在か否かの根本が問われそうに思われたわけだ。それは、こんな人についてゆくぐらいなら「死んだ方がマシ」と見限ってくれる人であって欲しい、との願う気持ちが働いたのかもしれない。

 そもそもベトナム出張は、台湾旅行の最中に勝手に決めていた。3週間後の出発だし、初めて使う格安航空機だった。第一に時期が悪い。わが家にとっては、いつ何時大雨が降らないとも限らない最も危険な時期であった。エンジン式揚水機を買い求めて(いつでも使えるように試し使いを済ませて)あったとはいえ、妻は不安だろう。

 伴さんと徒歩で出発ゲートに向かっていると、この旅に誘ってもらった藤村さんと出会った。おおらかな人だが、より確かな選択のできる人、と見ていただけに安堵した。出発ゲートにたどり着き、ベンチに腰掛けようとした時に、構内電車が運航を再開したことを知った。それだけに「歩いてヨカッタ」と思った。妻と連絡が取れない場合の心配をすっかり忘れ去っていたからだ。

 やがて伴さんの予測通りにケイタイがつながり、ホッとした。京都は、阪神淡路大震災並みの揺れだったが、大した被害はない。だがハッピーは異常な吠え方をした。かくして心置きなく飛行機の人となった。搭乗率は7割程度。運賃は、1カ月以上私より先に予約した人は3万円台だったが、3週間前の私は5万9千円強であった。
 
 ほどなく伴さんは機内で買い求めた昼食をもって私の隣席(2つともに空席だった)に移ってきた。機中食はついておらず、予約しておけるが、機中でも売りにくる。よいシステムだ、思った。

 だが、後方の席は品切れになりかねないとの助言に加え、メニューや買い求め方などを教えに来てもらえたわけだが、ダナン到着後に遅昼をとることになっている、と伝えた。ビールも有償だったが、伴さんにおかずの一部とビールをおごってもらい、機中で久方ぶりの歓談を楽しんだ。

 彼は、親から引き継いだ染工場を手仕舞いした男だ。だが、機械の一式をベトナムのある会社に、可動ノウハウの指導付きで引き渡す手はずを整えた人だ。その指導のために、時々ベトナム出張をしていた。そこで、持参すべき服装や雨具の相談に電話で乗ってもらったが、その折に「ボクも」と、ベトナム出張の予定が「翌日から入って」いたことや、「ダナンには先生の孫弟子がいます」とのエピソードを知らされた。

 翌日、伴さんがやって来て、1日出発を早め、同道する便に代えただけでなく、皆さんに「到着日の晩餐を手配したい」と知らされた。彼の弟子は婚約者と新規オープンしたホテルの運営に当たっており、母親がオーナーだという。結局、甘えることになった。

 ダナンには予定時刻12時に到着。一週間にわたって世話になるガイドと小型バスに迎えられた。伴さんと畑夕刻の再会を約して別れた。バスは昼食を目指して走り、道中の宝石店で両替。初の食事は「ブンチャカー」。カーは魚、チャはつぶしたという意味、ブンは麺を指す。つまりハンペン入りのつゆ麺のごとし、だった。後日、ブンはさまざまな麺の中で最も細い部類、と知る。ベトナムはビーフン麺だけでなく、パンも美味しい。

 旅は同じホテルで7日間連泊するダナン基点の旅だったが、その気分のゆとりがヨカッタようだ。すぐに戦争のある一面を知り得たような気分になった。ダナンは、南北に分断されていた時代の国境線近くの大きな都市であり、激戦地になった。その古都で、戦争のある一面を実感できたような気分にされたわけだ。

 昨今はTVで、米軍やロシア軍の中東で軍事介入した光景をよく目にする。その状況とベトナム戦争はまるで違っていたわけだ、と気付かされた。米軍やロシア軍機が爆撃した中東の都市は廃墟にされているが、ダナンにはその片鱗さえ認めらなかった。

 この想いは、2度目のベトナム出張で見たハノイを振り返らせた。要は、熾烈であれ市街の歩兵戦と、都市爆撃ではその物損が雲泥の差だ、ということだ。ちなみに、その都市の無差別爆撃を世界で最初に始めたのは日本の南瓜爆撃であり、ドイツのゲルニカ(母国スペインの惨状を告発したピカソの絵で有名な)爆撃だ。

 その無慈悲さの雲泥の差に思いを馳せながら、ある常套句がいいわけであったことを知った。それは「人間の盾」とう言葉だ。この言葉を用いることによって、「ヤムナシ」との想いを受信者に抱かせるためのプロパガンダだ。

 アメリカは賞味期限切れになりそうな爆弾などの有効処理(軍需産業が得になる)が常に求められており、定期的に軍事介入することが不可欠なのだろう。だがそのトバッチリを受ける相手の被害は計り知れない。その正当化の言い訳として「人間の盾」とう言葉が用いるのだろうが、被害者の心に残す負の遺産は計り知れないだろう。

 要は、ベトコンはダナンでも勝利したが、爆撃はもとより重火器を用いておらず、歴史ある都市に与えた物損は皆無と言ってよさそうだ。現実問題として、アメリカはベトナム人の命を奪おうとしたが、ベトナムはアメリカ兵の腕や脚を奪うだけで済ませようとした。口を封じるようなやり方でよいのか。アメリカ兵は5万人が戦死し、帰還後に15万人が自殺したと聞かされている。それだけ熾烈な市街戦にもあったのだろうが、その傷跡馳せ今や目視できない。

 最初の訪問先は世界文化遺産の旧市街・ホイアンだった。まず200年前に建てられ、今も使い続えられており、30年前に改築したという大きな木造建物の「市」を見学。

 午前の繁忙時を終えたようで閑散としていた。店番の人は昼食を済ませ、午睡の時間だった。市で出会った地元の男が「今は、トドしか並べていない」とささやいた、とガイドに教えられた。ここでも女性の方が働き者に違いない。同道の旅行仲間は午睡する女性の様子を察知し、声を落し、もの静かな見学になった。

 次いで当時の富裕層が軒を連ねた住宅街に至った。ホイアンでは、鎖国前の日本人が1000人ほど暮らしていたという。家並はツーボン川に沿って軒を連ねている。かつては帆掛けの貿易船が往来していたのかもしれない。屋内は当時の暮らしぶりを彷彿とさせた。つぶす(消費する)側の人と、つくる(家事に携わる)人が用いた道具の落差が、工業社会とは違ってはなはだしい。

 やがて当時の日本人が造ったという「日本橋」に至ったが、橋の下に棲んでいたとの大鯰の逸話(日本での地震、インドでの旱魃などの原因らしい)を知るだけで終えた。

 この川のズーッと先にはドラゴンブリッジがあり、その近くにあるホテルで伴さんと再会する約束をしていた。伴さんは京都で、現在はゲストハウスを経営しており、そこで弟子も育てた。だから、時代の読み方、ココロのありよう、世界で通用する約束、あるいは次代の迎え方など、アイトワが大切することも弟子に教えたので孫弟子だ、と言ってもらえたのなら、これほど光栄なことはない。

 そのリバーサイドホテルは真新しく、新規オープン間なし、と思われた。オーナーの母親、本人、そして婚約者の青年を紹介され、次々と料理が振る舞われた。美味だった。松村さんが持参した土産の酒は、晩餐の友になった。台湾旅行で世話になった古川先生はとても希少な酒を土産にとトランクに入れ、持ち込んだが、無残な結果に終わった。何かの衝撃で割れただけでなく、衣服を台無しにした。古川先生は高名なヨットマンでもあるが、格安飛行機旅行の過程で荷物が受けかねない衝撃を少々甘く見られたのだろう。お気の毒で見て見ぬふりをしたくなった。

 リバーサイドホテルは弟子のカップルや従業員もよかったが、ドラゴンブリッジを見下ろせる屋上もスバラシイ。ここでいつかビールで乾杯を、と願いながら伴さんがいう子弟関係3人でも写真に納まった。かくして初日を終えた。

 ダナンの旅は松村さんがお気に入りのホテルで連泊したが、安くて部屋がゆったりしており、朝食付きで、6日間を通して麺で始まりパンで終える朝食を楽しんだ。ベトナムはビーフン麺が多様で美味いが、フランス人仕込みのパンも美味しい。

 食堂は冷房をきかせておらず、風に頼ったが、占める席は常連さんのおかげで自ずと決まった。それは、麺を割愛して毎朝2種のパンを選んだ噂の先生のことだ。「ここが涼しいんですよ」と教わった平本道昭先生だ。風がよく通るところで5度も朝食をご一緒でき、親しく語らう機会に恵まれた。

 出会いはダナン空港到着時の空港バスで、重そうなリュックを背負うお手伝いをした時だ。その時に「新しいパスポートも、10年モノをとりました」と知った。形成手術の権威(関西形成学会会長も務めた人)だが、20年前からボランティアでダナンに通い、形成手術に携わって来られた。年3回、各2週間、旅ごとに10〜15回の施術。83歳。

 「鼻が横についている人にも関わった」とおっしゃるが、今は、生まれながらの異常が主対象だ。だが、転落や交通事故が原因の患者の救済にも関わっている。この先生のボランティア精神に惹かれてだろうが、日本から同道する看護婦さんも多いようだ。

 当初は国営病院で活動されたが、民営に居場所を替えた。国営の欠点は人事。人の入れ替わりが激しい。民営に替わっても辛いこともあった。民放TVの取材を受け、顔が知れ渡り過ぎたことと、あらぬ噂を立てられたことだ。国営病院で知った患者を民営に誘い、金儲けしている、との噂を立てられた、とおっしゃる。

 「真実はいずれ明らかになる」を信じてベトナムに通い続け、今では多くの慕う人に囲まれている。この旅の最終日に、その一人とおぼしき人とお目にかかることになる。
 

30年前に改築したという大きな木造建物の「市」

今は、トドしか並べていない

富裕層が軒を連ねた住宅街

ツーボン川に沿って軒を連ねている

つぶす(消費する)側の人と、つくる(家事に携わる)人が用いた道具の落差

つくる(家事に携わる)人が用いた道具

ドラゴンブリッジを見下ろせる屋上もスバラシイ

伴さんがいう子弟関係3人

麺で始まりパンで終える朝食


朝2種のパンを選んだ噂の先生

 2日目。訪問先はミーソンの予定だったが、松村さんが「僕が(ダナン時代に)関わったチップ工場に立ち寄ってみない」と提案。その溌剌とした声に全員賛成。それもそのはず、松村さんはダナン時代が生涯で最長の定住地になると、と知った。台湾で生まれて引き揚げ、父の仕事の関係で移動が激しく、ダナンでチップ工場の2代目社長として8年間勤めた。これが同じ場所に留まる最長期間になる、という。人生観ではなくて、死生観の持ち主なのだろう。

 1993年創業のチップ工場を目指すことになり、未舗装のガタガタ道も走った。やがて大きなチップの山が目に入り、真新しい工場にたどり着いた。

 統一ベトナム政府は30年ほど前に、500万haの植林プロジェクトを立ち上げており、5年で収穫可能のアカシアの苗を植え始めた。それ以前の病気にも弱いユーカリに替えたわけだ。今や300万haほどのアカシア林が茂っている。この国家プロジェクトに沿った事業でもある会社の、松村さんは2代目社長として1999年から8年間、良き運営をされたのだろう。

 現在は5代目の社長時代だが、唐突の訪問にもかかわらず、顔見知りの幹部はもとより若き女子社員にも温かく迎えられた。チップ市場の現況やチップの歩留まり(生木100トンで25トンの紙ができる)などの説明はもとより、工場見学にも丁寧に応じてもらえた。しかも、5代目社長は翌日の私たちの行動に同行してくださることになった。

 ミーソンはチャム王国の遺跡で、ダナンから約70qのところにあった。赤レンガ造りの世界文化遺産。インド文明の北限だ。赤レンガの接着に(1か月前に訪れた台湾の王宮では砂糖、砂、貝殻、そしてもち米の混合剤を用いており、今日のセメント以上の耐久性を誇っていた。だが、ここでは)何も用いず、レンガをこすり合わせた上で積み重ねる工法で寄せる年月に耐えていた。問題は、ベトナム戦争時代にベトコンが武器庫に活かし、米軍の攻撃対象になり、破壊が進んだことだ。この遺跡には博物館が付設されており、そこでチュノム文字と、ベトナムの言葉について学んだ。

 文字を持たなかったベトナム人は、漢字を組み合わせて用いるチュノム文字を作ったが、これが難しすぎて識字率が10%程度で留まり、伸びなかった。そこで、フランス統治時代にアルファベットにヒントを得た文字を作り、今日に至る。

 なにせ、母音が12〜18ほどある言葉であり、ウムラウトのような発音記号が6つ、そして子音が22ほどある。総計1,600近い発音を使い分けているわけだ。たとえば、箸、端、あるいは橋を、発音だけでキチンと判別できる繊細な正確さを誇っている。

 前回の旅で、米軍がなんとしても落そうとして落とせなかった長大なテッキョウを思い出した。一晩の間に復興させ続たわけだが、それは決死の行動の成果であっただけでなく、口頭での正確な伝達手段の成果でもあったに違いない、もっと正確に言えば、口頭での伝達手段をかく厳密にすべし、と努力した国民性にありそうだ。

 余談だが、私たちは、「お」と「を」を残しているが、発音では識別しようと努めていない。「ヱ・ゑ」や「井。ゐ」などは文字さえなくしてしまった。要は、発音や文字さえ、厳密で正確な意思表示手段として育てようとする意識に欠けていたのかもしれない。

 日本も漢字を導入したが、ひらがなやカタカナを発明し、今日の繁栄に結び付けたわけだが、ベトナム人は日本とは大きく異なる導入文字の活かし方を考えて来たようで、今後の成り行きが興味津々だ。

 3日目。11人乗りバスでのホーチミンルートの走行が主目的だった。同道してくださった5代目社長は、大きな体を運転手とガイドの間に収められた。なぜか私は、ベトコンはこの上に、冷房がなく、銃器を携えていたのであろう、と連想した。

 ホーチミンルートはホアビンから南のコンツムまでの1500q程と見られるが、この日の私たちは、ダナンから80qのところのプラオから北に折れ、アルイまでの120qのホーチミンルートを含め、全長380qを走る旅程だった。

 アルイは米軍兵士が「ハンバーガーヒル」と呼んだ地だ。ミンチ肉のようになるほど米兵がさいなまれた激戦地だ。この近辺で、当時は道が隣国ラオスに廻り込んでいたが、今はホーチミンルートの舗装整備時に、越境せずに済む新道が設けられている。

 プラオの近辺で1時間ほど寄り道をした。長いつり橋を徒歩で渡り、少数民族の1つ、カトゥー族の村を訪れ、交換。その親切な応対ぶりを知り、次回は「この”神の間”で一泊し、村人の文化を学びたい」と思った。大きな鳥が幼児をさらいに来ると信じており、その災難から幼児を守るさまざまなマジナイを施している。

 ベトナムの人口は9,300万人。その9割をキン族が占めており、少数民族は15部族で総計100万人に満たない。カトゥー族と別れを告げ、今はワイヤー用いたつり橋を戻り、アルイまで走るこの日の主目的をはたした。

 フエ経由で戻ったが、その道中で有名な逸話をもつ天姥寺や、紫禁城を真似たというグエン王朝の宮殿に立ち寄り、それぞれ外観だけ望んだ。さらに、南シナ海(と小学生時代に習った)を望む海岸線沿いを走ったが、広大な汽水域を眺めながら日没を楽しんだ。東の方向に日が沈むように思われたからだが、それは錯覚のいたずら、と翌日学んだ。

 そこは真珠の養殖場などに活かされているようだが、カキ、ハマグリ、あるいは赤貝などの養殖をしている。かつては、少数民族のチャム族の居留地であったが、キン族(今日ではベトナム人と呼びあっている)に追いやられたという。

 チャム族は一寸法師の逸話発祥で知られるが、今も一寸法師のような船を用いているようだ。それはともかく、私たちは日本人と呼びあっているが、司馬遼太郎のように、在日日本人との自覚が望まれ、それが日本人を国際人にする秘訣では、と妄想した。

 4日目。標高1500mのバクマー山を訪れた。フランス植民地時代は避暑地にされており、虎狩も行われていた。時代は下り、ベトナム戦争時代は頂上を米軍がヘリコプター基地に活かし、ベトコンは山腹に200m以上の複雑な洞窟をうがち、ヘリコプターを撃墜した。頂上には今、この山の歴史を教える記念館がある。

 さまざまなチョウが舞い、セミ時雨が賑やかで、仲間の一人であった昆虫博士は珍しいカメムシを捕えて愛で、写真に収めて放した。大きくて見事なアゲハチョウもいる、と昆虫博士は意気込んだが、すべてのチョウが気ぜわしく飛び始めた。殺気を見抜かれたわけだ、と私は見た。

 その見事なアゲハチョウを連想させそうなセミを捕まえ、見せてくれた人がいた。横目でその光沢のあるセミを眺めた博士は、「セグロミドリゼミ」とおっしゃった上で「名前なんて、大体こうしてつくもんです」と一言追加

 記念館の見学の後、館から出てフト見ると、借りた捕虫ネットで身構える居合道の師範の姿があった。次の瞬間、サッと身をひるがえしたと見るが早いか、見事にチョウが捕まえられていた。この時に、剣道や居合道について、あるいは刀と剣の差異などを詳しく学びたくなった。

 5日目はダナンの市内の見学日。社会主義国のベトナムではでは珍しい(と聞いた)私立のドンア大学を先ず訪問した。キャンパスには白やピンクなどの満開状八重桜が何本か見かけられた。元JETRO所長(今はドンア大学の顧問)と待ち合わせていたが、挨拶をかわすと同時に「造花です」と教わった。理事長の名にちなんでいるようだ。迎えてもらったのは学長だが、元はダナン外務局局長。このお二人はともに松村さんの顔なじみだ。理事長は学長の夫人と聞いたが、実権者は夫人とみた。

 学校は国際性と実践力に重きを置く教育方針のようで、ベトナム人にはとても有効ではないか、と思われ、未来は明るそう、と感心した。

 その後、「市」を訪れたが、東南アジアでよく見るように露天にまで商品を広げていた。一通りの果物を楽しんだり、黒コショウを探したり、老婆からウコンの粉を買い求めたりした。ウコンの粉はわが家には「売るほどあります」と妻に叱られそうに思ったが、買い求めた。ベトナム戦争時代に苦労した人の一人に違いないと思われたからだ。ならば妻はむしろ喜ぶはずだ。

 近代的なスーパーも訪れた。その品ぞろえを学びながら、かつてモンゴルを訪れた折の憶測(予想通りに、モンゴルはその後、容易には引き返しがたい道に踏み込んだようだ)を振り返り、ベトナムの行末を推し量った。

 ベトナムは世界第2のコーヒー産地であり、その専門店に案内されたが、洒落たその付属喫茶店の店内でくつろいだ。仕上げはジェラードショップ。

少数民族の1つ、カトゥー族の村を訪れ、交換

この”神の間”で一泊し、村人の文化を学びたい

紫禁城を真似たというグエン王朝の宮殿

博士は、「セグロミドリゼミ」とおっしゃった上で「名前なんて、大体こうしてつくもんです」と一言追加

一通りの果物を楽しんだり、黒コショウを探したり

 


 6日目。クアンガイ市の元陸軍士官学校跡地とソンミ村を訪ねた。クアンガイでは旧日本軍兵士数百名が残留し、武器を解放し、対仏独立戦争に立ちあがった若者が烏合の衆のごとしと見て取り、軍事指導を施したことで知られる。その軍事教練の足跡を「解る人には分かる範囲の表現」だが、残留日本兵を顕彰するがごとき真新しい碑が立ち、車1台が通れる程度だがコンクリート製の道づくりが始まっていた。

 数百名の残留旧日本軍兵士はベトナム女性と結婚し、ベトナム姓を名乗り、溶け込んだわけだ。その多くは東北出身の二、三男坊であったり、広島や長崎の出身者であったりしたらしい。この残留兵の現実はNHK-TVによって番組化された。

 日本政府はこの残留兵士を後年になって帰還させたわけだが、妻子の帯同を許さなかった。こうした事実を知った今上天皇は近年の訪越時に、こうした妻子を慰問した。この事実を日本のメディアは取り上げたが、ベトナムでは紹介していない。しかし、事実は隠し通せないものだ。現場にいわせたベトナム人や、近年の今上天皇の行動に触れたベトナム人を通して多くの国民に広く知れわたっているという。

 ちなみに、この今上天皇の行動は、NHK-TVの番組がキッカケだったが、そのキッカケは元JETRO所長の努力の賜物であったようだ。いずれにせよ、今上天皇夫妻の英断は、多くのベトナム国民のココロに、日本に対する温かい想いを焼き付けたようだ。

 他に、聞き捨てならない風評も耳にした。残留日本兵の軍事指導がビエンビエンフーでのベトミンの勝利に結び付けたようだが、その後、アメリカをベトナムから追い出したベトコンの勝利にも結びつけたようだ。後者では「これで残留日本軍兵士に恩返しができた」との声をベトナムの戦士に発せさせた事例があった、という。

 次いでソンミ村を訪ねた。今や昔の面影はない。かわって立派な戦争犯罪博物館(?)が設けられており、その悲劇の歴史を学ぶことができる。ドイツのダッハウ(国家をあげてホロコーストを反省し、明らかする施設)でも、感銘を覚えたが(こうした努力が欧州におけるドイツの信頼を構築し、EUの優に導いたわけだが)、異なる感銘を覚えた。

 アメリカのカーリー中佐が率いた部隊が老人と母子を主とする村人504人を惨殺した事件の現場だが、目の当たりにして、私のココロは安らいだ。2つのエピソードの紹介に触れたおかげだ。その1つは、このアメリカの恥部を明らかにしたのはアメリカの若者であったこと。2つ目は、この作戦には従えないと考えた兵士は自らの足を銃で射抜き、負傷兵となって作戦から外れたという事実の紹介だった。

 アメリカのメディアは、この2人の行いをメディアの責務として紹介し、2人の勇気を讃えたのは当然のことだが、ベトナム政府(?)もこの2人の行いを讃えるがごとき紹介をしている。この2人の行いによって、アメリカやアメリカ人の残虐性を紹介する施設ではなく、戦争が人間にもたらす弊害を明らかにする施設かのような印象を観る人に与える。

 この日は、教師に引率されたベトナムの若者が大勢いたし、アメリカの旅行者も大勢いた。その人たちのココロに一服の清涼剤のごとき気分を届けていたように思う。

 ここで、ベトナムに派遣された韓国軍の噂も聴いた。ソンミ村といずれ劣らぬ残虐な作戦をアンラオ村で展開したらしい。彼らはアメリカの圧力で死地に追いやられたわけだから、あっても不思議ではない、と見た。問題は、ソンミ村の虐殺はアメリカのメディアが世界に向けて明らかにしたが、アンラオ村の事件を肝心の韓国メディアは問題として取り上げていないことだ。真の愛国心がないのだろう、と国民性が疑われている。

 もちろん私にはこの問題の是非はわからないし、事実であったとしても責めたくない。しかし、こうした恥部は隠せば隠すほど増幅される恐れもある。第一に、自国民を欺いていることになる。さらに、その国民も、あざむかれれて身を保つかのごとき事態 (いわば知らぬは亭主ばかり) に甘んじているかのように思われかねない。

 同様の問題で、韓国は国民性を疑われており、同情を禁じえなかった。それは、派兵した兵士と現地女性との間で生まれた子どもの問題だ。アメリカは、希望しない事例は省き、残るすべての子どもを「期待されざる問題児」と見て国家が引き取った。だが、韓国政府は自国兵が生じさせたが子どもを、まるで置き土産のように残しおり、ダイダイバンとの別称の対象にさせている。これも戦争が人間に押し付ける必然の悲劇の1つだと私には思われるだけに、考え込まされた。中には連れ帰りたい兵士もいるだろう。

 私たち日本人は憲法9条によって守られ、こうした悲劇が生じかねない難からこれまでは免れたてきたわけだが、もし派兵されていたら、と思わざるを得なかった。太平洋戦争時に旧日本兵は同様の問題児を生じさせており、今日の日本兵に限って、とは誰しも言い切れないと思う。

 現実問題として、カーリー中佐はソンミでは村人を「殺しつくし」、村を「焼きつくさせた」が、太平洋戦争時の日本兵は中国で、この2つに加えて食料などの「奪いつくし」を加えていたようだ。食料の補給を十分に計画していなかった旧日本軍にあっては不思議ではない。この「奪いつくし」が、「殺しつくし」「焼きつくせ」に結び付けた恐れさえある。それはともかく、このやり方は「三光作戦」として流布されている。

 この日、3カ月前に完成したという高速道路も走った。ベトナムは産油国だが、これまでは石油の輸入国だった。現在、製油工場を拡張中だが、その規模も覗き観た。自動車の組み立て工場も稼働している。この日、車中で「山羊鍋」が有名であったことを知り、経験することになった。もっと歯を大事にしておくべきであったと反省に供した。

 このベトナムの旅は、世界文化遺産の旧市街・ホイアン訪問から始まったが、以上ですべての日程を終えることになっていた。この企画をして誘ってもらえ松村さんに多々感謝しながら最後の就寝に、と思っていると、電話のベルが鳴った。

 「森サンなら、こっちの方がよいんじゃない」と松村さんの声だ。1も2もなく私は飛びついた。買い物時間に宛てられていた最終日の、出発前の空白時間の活かし方だった。「平本先生を案内するんですが」とまで聞いただけで「お願いします」と応えたわけだが、それがヨカッタ。有終の美になった。

 朝を待ち、最後のビーフン麺とパンを楽しんだ上で、出掛けた。鉄筋2階建ての大きな民家にたどり着いた。そこは、たとえていえば、カイロプラチックなどの施術をほどこす施設、としてピッタリのように見える建物だった。

 ひょっとしたら、そうであったのかもしれない。だが、私としては、質問などしない。キンギョの糞のごとくについていったわけだから、五感での吸収に努めた。それもヨカッタようだ。今頃になって「ひょっとしたら」との憶測を抱いたわけだから。

 数名のベトンム人女性と、3人の日本人男性に迎えられた。サバの生寿司や湯がいたイカの輪切り、あるいは赤ワインやビールを勧められた。望めば焼酎なども振る舞ってもらえそうだった。中心人物はすぐに分かった。残る2人は常連の訪問者だった。

 特定のベトンム人女性の名を呼び、指示する70歳過ぎと見た日本人男性が訪ねた相手だったが、車椅子の世話になっていた。この人に呼ばれた若き女性は、男性の車椅子を乱暴ではないが敏捷に操作し、テキパキと阿吽の呼吸で反応した。

 それもそのはずだった。この建物はこの男性の持ち物であり、この若き女性は今やこの男性の養女であった。この男性は、日本語の教師としてベトナムにわたり、少女時代のこの女性を生徒の1人として教えた。その過程で、彼女は就学をあきらめざるを得ない立場に追い込まれたようだが、その時にこの教師は利発なこの少女に手を差し伸べた。そして1人でも生きてゆけるように料理の腕なども授けてきたらしい。

 日本では、この男性は割烹やガソリンスタンドの経営に携わっていたという。日本でいう教師の資格はない。ベトナムでは今も、実力と人柄、そして誠意と努力のほどなどが評価され、資格などに優先する社会で留まっているようだ。

 問題は、その後で生じた。男性がパーキンソン病にさいなまれてしまったことだ。この女性は待っていましたとばかりに身の回りの世話を買って出たようだ。その誠意と人柄、そして努力と実力などが養子縁組に結び付けたようだ。もとより男性はベトナムでその骨を埋める覚悟で来ていたようだ。

 平本先生が何時、どこでどのようにこの男性と縁ができたのか、そうした事情は私にはわからない。分かったことは、何よりも大事にしたいと考えて供した要素に満ち溢れた時空に私は立ち合えている、との充実感であった。

 私たちはぼつぼつ、さまざまな人為の主義や宗派、あるいは肌の色などを超えて、人類共通の敵に立ち向かわなければならない時に差し掛かっている、と思っている。その敵は、幾万年か前にアフリカを旅たち、今や地球のあらゆるところで分け住まうようになった現生人類の、とりわけ工業文明圏に住まう私たちの心に巣くっている。

 短絡にいえば、それはアダム・スミスがいう「自愛心に基づく見えざる手」への偏重だろう。ぼつぼつ私たちは、もう片方の手を有していたことを見直すべき時だ。それを有効かつ存分に生かし、次元を超えた自己改革をして見せなければならないよう時であるように思う。

 武力による覇権や経済力による覇権などにおののかず、自然の摂理を尊ぶ霊魂を尊び、各人の誠意や人柄、あるいは努力や実力などを競いあわなければならない時ではないか。さもなければ、国家も個人も、日本とりわけ日本は惨めなことになりそうだ。

 平本先生と朝食を共にするようになって3日目の対話を思い出した。この20年間のベトナムの変化を話題にしたときのことだった。多くのベトナム人は、かつては「戦後30年にして、日本はどうしてあれほど繁栄したのか」と、よく質問された。だが、「10年ほど前から、この質問はなくなった」。ベトナム人には「自信ができたのでしょう」。

 まるで、商社員時代にボーナスとして与えられた海外出張の報告のようにになった。



 

残留日本兵を顕彰するがごとき真新しい碑

アメリカの恥部を明らかにしたのはアメリカの若者

足を銃で射抜き、負傷兵となって作戦から外れた