Green Fields Forever
   

庭を森にした人  


そこに行けば鳥が歌い蝶が舞っている。
そこに行けば心が蘇る。
そこに行けば命の洗濯をできる。
そこに行けば生きていることを実感できる。
そんな緑の大地を永遠に願って、
さあ歌い出そう。
"グリーンフィールズ・フォーエヴァー"

その庭には40年の月日が流れた。
高度成長期、多くの人が黄金郷を目指し、資本主義の激流を遡ろうとしていく間も、その青年はコツコツと苗を植え、種を蒔き、草を刈り、実を摘んだ。
理想の庭を信じて、それこそが人が生きる道だと信じて。
そして、橋の下を多くの水が流れた。
やがて時代が変わり、青年は初老の男になった。
彼はまだ、樹を植え続けている。



京都という、歴史ある都市のなかで、40年という時間は短い。しかし、一人の人間の人生にとって40年はあまりに長い。人々の食が変わり、服装が変わり、表情が変わる。そういう時間だ。
そんな時間の流れのなかにあって変わらぬ思想を持ち続けた人がいる。
「庭のない家は住処じゃない」
京都市のはずれ、嵯峨嵐山。
育った土地に踏みとどまり40年かけて1000坪の庭を森にした。森孝之さん。昭和13年生まれ、64歳。
いまでは、約200種1000本以上の樹木が生い茂る。庭でも林でもない森がここにある。
家に庭がついているというよりは、森の中に家があるといった感じだ。ここでの森さんと庭の関係は昔の日本人にとっての里山のようなものだ。
かつて日本人の生活は里山と密接な関係にあった。
いわば生活のすべてをそこにゆだねていたのだ。だから人々は里山を利用するとともに、大切に保全してきた。その生態系が破壊されているということは自分たちの生活に関わる問題だったからだ。山の樹木を一度に何本以上切ってはいけない。水源を汚してはいけないなどその地域単位でも決まりごとがあった。
「ゼンマイは3本残して獲れ、タラは3度目に出た芽は獲るな、と教えられました。先人の知恵ですね」
奥さんと二人でこの森を守る。
「いまでは『庭を森にした森さん』なんて言われるんですよ(笑)」
ちょっと照れくさそうに言いながら、森さんはまったく屈託のない笑顔を見せた。




1964年
門の前にて、商社に入社したての頃。まだ森と呼べるものではない。
2003年
同じ場所からとは思えないほど木々が生い茂る。手前左側から覆い被さっているのは柿とサルスベリ


1974年
結婚後間もない小夜子さん(当時24歳)と孝之さんの母。腰掛けているのはスモモの木
2003年
29年ぶりにスモモの木に腰掛けた小夜子さん。この木にも、小夜子さんにも同じ年月が流れた

1975年
夫婦で撮った写真。薪にするためのクヌギの木を伐ったところ。後ろに見えるのは住居
2003年
薪割りをする森さん・慣れた手つきで次々に”スパン”と太い薪を割っていく。木に隠れて住居は見えない






シャベル、カマ、ノコギリなど主に畑のための道具




フォーク、スコップ、ツルハシなどは樹木を植えたり、開墾するために使う


もとは赤土の開発地だった。
「生まれは西宮なんです。しかし、戦争になり、1944年にこの土地の近くに住んでいた伯母を頼って疎開して来ました。父はそのとき肺を病んでおり、西宮に残りました。この赤土の開発地を父は手に入れ、妻子に産業で生き延びさせようとしたんです。父はもともと農家の出身でしたから、土地や畑さえあれば生きていける。そう考えたのでしょう」
その後、お父さんも嵯峨野で闘病生活に入り、一家で暮らし始める。
森さんの森づくりは、無事に成人した記念に20本植樹したのがはじまり。その後、学校を卒業し、大阪の大手商社に勤務、会社の寮に入る。
月曜から土曜の昼まで仕事をしたら、すぐ電車に乗って嵯峨野へ。夕方暗くなるまで土地を耕したり、植樹したり。日曜日も朝から暗くなるまで同じ。夕食を食べて、大阪の寮へと帰る。そんな日々が続いた。
「週末になると、急いで京都へ帰ってゆくのを不思議に思ったのでしょうね。同僚からは、京都に女がいるんやないか、と言われてました(笑)」
1963年、25歳のときには金融公庫からお金を借り、20坪の家を94万円で建てた。このとき、土地の時価は500万円だった。
誰もがお金を稼ぐことに夢中だった時代。森さんはずっと先を見て持続可能な生活を築こうとしていた。






下の畑から少し高いところにある住居まで、風呂で焚く薪を運ぶ孝之さん。「体力がなくなったときのために」と石で道をつくった。途中で休めるように、平らな場所を3カ所ほど設けている。結構な重労働


(上)関西で一番早いソーラパネル森や畑の水をまかなう水源地。堆肥は下の古いものから順番に使っていく

(下)マンホールを隠すために石で道をつくった。水源地の水を一度森の中に貯める。ここは、イタチも水を飲みに来るとか


森家の生活は、森の自然と密接に結びついている。たとえば、クヌギ林。庭の中ほどにはクヌギ林がある。大きくなったものから切り倒し風呂を沸かす薪とする。
「私はもともと早風呂なんですが、冬場この薪で焚いたお風呂に入るのは非常に気持ちがいいんですよ。ゆっくりとお湯につかっていると、ガスで沸かしたものと、湯のやわらかさが違うことに気づかされます」
また敷地内には水がしみ出している場所がある。わさびが自生するほど美しい水だ。この水が一年中、枯れることがない。畑には新鮮な野菜が育ち、柑橘類がたわわに実をつけ、薬草を摘んで沐浴剤にする。
生ゴミはコンポストへ。これは、落ち葉と生ゴミを堆積させていって、約2年で肥料となる。
「草花や果樹などは種苗業者から苗や種を買ったり、散歩の途中に拾ったり。松は山から採ってきたし、クヌギやスギは頼んで山の植林用をまとめて売ってもらったんです。なかには植樹をしていることを知った人が持ってきてくれたものもあります。退職記念にもらったもの、尊敬している人の庭からもらったものなど、エピソードのある木もたくさんある。ただここまでくるには失敗もたくさんしましたよ」
森さんはそういって木を見つめる。
「残っているのは、今まで植えてきたものの3分の1くらいでしょうね」
1000本以上ある樹木のうち200〜300本くらいは植えた覚えはないという。
「鳥の糞です。この森に集まってきた鳥が糞をする。そのなかにさまざまな種類の木の実が入っていて、それが自然と発芽をするんです」
森をよく見るとそこかしこに、まだ小さな芽が出ていたり、ひょろっとした木が生えていたりする。
また不思議なのは同じ40年前に植えたものでも、あるものは抱えきれないほど太くなっていたりするのに、他の木はその半分以下だったりすること。これは水の通り道などの諸条件により育成に差がでるため。
人間の手と自然の力が合わさってこうした予測不可能な成長を遂げていくようだ。森自身が意志を持っているかのように。


森づくりには辛いこともあった。
「日曜日など親子連れのハイカーが家の前を通っていくんです。すると親が私の方を指してこういうんです。『ほら!ようみてごらん!一生懸命勉強せんと日曜日まであんなことせなあかんのよ』と子供に言って聞かせるんですよ。はじめは気にしていましたが、そのうち慣れて、『そうやで僕!しっかり勉強せーや!』と言えるようになっていました(笑)」
それは、森さんに確固たる自信があったからだ。
「ソ連のスプートニクが飛んだんです。それを見ようと夜空を見上げていたら近所の10歳年上の知的障害のあった友達がこう言ったんです。『そうやって石油をボンボン抜いてたら、湯たんぽと一緒でいつか空になるなぁ』その一言が頭から離れませんでした」
1957年、森さんが19歳のときの話だ。ガーンを頭を殴られたような衝撃を受けた。そんな体験があったからこそ40年間も森づくりを続けることができたのかもしれない。
「最近やっと自信を持って“エコロジスト”と名乗れるようになりました」
この森のなかでエネルギーの自給や循環型の生活を目指している自分は間違っていない。今ではきっとそう感じているに違いない。
森さんは40歳のときに、16年間勤めた商社を退職した。決定的だったのは73年のオイルショック。
「繊維関係の部門にいたんです。でも次から次へと新しい服を生み出していく。浪費は美徳になっていく」
そんなときに日本の将来を考えた。
「日本の自然を生かした、新しい日本人の生活モデルをつくろう。」
商社マン時代からこれまでに100回以上も海外に出かけ、多くの国のさまざまな人々の暮らしぶりを見てきた。気づいたのは、水が豊かで四季の変化がある日本の自然が一番素晴らしいということ。
「最近、ある本を読んでいたら、『天国とは自分のしたいことがたくさんあるところだ』という一節があったんです。そのときハッと気づきました。それなら、この庭こそが自分にとって天国なんだと」
40年かけて、好きなように庭づくりを楽しんできた森さんだからこそ言えるセリフだろう。
「私のような生活をしている人がいることを昔話にはしたくないのです。そうすれば、日本はいい国として残っていくのではないでしょうか」
近頃はやりのイングリッシュガーデンなどというものではない。観賞用ではなく、本物の生態系がある。人間が利用し恩恵を受ける森だ。また、うまく循環し、その中でも環が完結するビオトープでもある。
「里山や里地は人間が常に気を配っておかないといけません。ほら、こうして気づいたときに抜いておかないと。放置すると後が大変なんですよ」
そういいながら、森さんは今日も足元の草を抜いてゆく。

(左上)夏柑、ダイダイ、きんかん、など柑橘類はふんだんにある。
(左下)ローリエ。摘み立ての香りのよいものが料理に一役買う
(右)日なたに自生しているワラビ

(左)ほぼ毎日、薪でお湯を焚いている。これは小夜子さんの役割
(右)20mあったクヌギは2年前に3分の1の長さに切った。取材時の2〜3週間前にさらにもう少し切り、現在は5mほどの高さ。




Q.この森を作ってよかったと思うのは、どんな時ですか?
A.いろいろありますが、庭でBBQをしたときに、遊びに来ていた子供がスイカを食べていたんです。そしたらカブトムシが飛んできてそのスイカにとまった。この時の子供の喜びようはたいそうなものでした。見ている方もうれしかったですね。また、やはり子供たちを夜の森へ連れて行ったんです。そうしたら羽化したアブラゼミを発見しました。この時もうれしかったですね。

Q.家はどうやってつくりましたか?
A.
間取り図(右)の斜線部は増築した部分です。はじめは小さな家でも、お金に余裕が出来たら増築していけばいいと思うんです。この家はもう9回も増築しているんですよ。

Q.野菜の自給率はどれくらいでしょうか?
A.
キャベツやナスなどは買っていますが、その他はほとんど畑で採れたものを食べています。80%くらいは、自給してるんじゃないでしょうか。

Q.自然の森や山は荒れて行くばかりですね。
A.
小鳥だって1本の木の実を食べ尽くしたりしません。イノシシだって同様で畑のサツマイモを全部食べ尽くしたりしません。人間はいつの間にかおかしくなってしまった。自然に対してすべてを取り尽くしてしまおうとしています。

Q.これから田舎暮らしをする人に一言下さい
A.
私のような暮らしをしている人が5軒集まったら、コミュニティーが出来ます。ある人は米を作り、ある人はニワトリを飼いまたある人はヤギを飼い乳やチーズをとる。日本の高度成長期はコミュニティーを解体してきたんです。それをすべて工場でつくるようになったから、コミニュニティーがいらなくなった。我々人間がやることを機械が代行してきた。我々がしてきたことは、お金を稼いで工場で作られた商品を買うこと。つまり、大きな子供になってしまった。昔の”大人”は、味噌、醤油、服など何でも自分でつくった。それを現代人はお金で買うようになった。それなら子供でもできますから親を尊敬できません。だってお金があれば父や母がいなくても生活できるんですから。




この記事は(株)第一プログレス発行の『自休自足』より抜粋したものです。
200371発行

文 門辺貴至
写真 下村靖典
イラスト なかだえり

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