工業化社会の病いをどう回避してゆくのか
 
2004 10 13  掲載  
                                                    
手作りの鉈や斧は、目方やサイズや形状だけでなく、重心の位置や持ち手の太さなども異なり、二つとして同じものはありません。購入する人は、各人の体格や力量、利き腕とか腕の長さ、あるいは用いる森やその植生などから判断し、身体の一部のようになって活躍し、手放せなくなる道具にしてゆくのでしょう。

 

スコップやツルハシなどは、手を着けずに別々に売っています。それは当然でしょう。同時に磨り減ったり傷んだりすることなんてまずありませんから、まだ使える部分まで一緒に捨てるような無駄は避けているのでしょう。スクリューも壊れやすいのか、ばら売りでした。
傷んだモーターも補修して使い続けるのでしょう。各種の銅線を売る店もありましたし、そこに故障したモーターを持ち込み、指導を受けながら銅線を巻き直している人もいました。かくして自活能力を高めたり、得手や苦手に気づいたりしながら個性に目覚め、己の役割や使命に気づき、存在意義を確かなものにするのではないでしょうか。

 

炎天下での単調な茶摘みには女性が従事していました。ゴールまでの道中で立ち寄ったプランテーションでは、日に23キログラムは摘まなければならず、それで日当200ルピー、時間給にして30円ほどでした。23キロ以上摘むと報奨金がでます。
同じプランテーションのゴム園では、木陰になるゴムの採取には男性が従事していました。木に瑕をつけ、にじみ出た樹液を採取し、まとまった量になれば頭に乗せて運ぶやや複雑で力を要する仕事です。日に300本の木から7キログラム集めて日当200ルピーです。7キロ以上集めた勘定になると、報奨金がでます。

 

ルアンパバーンまで10時間の急行バスには乗組員が3人もいました。数時間走った山また山の中で、冷却水を送るパイプが破れたのです。最寄りの集落に助手を走らせた運転手は、副手と二人で借りてこさせた鋸(のこ)と竹を使い、炎天下で補修しました。その間、助手は水を求めて10回余り村に走っています。再出発したものの、エンジンが焼けていたのか坂を登りきるだけの馬力が出ず、10軒余りの集落までバックで引き戻し、乗合バスが来るのを待たせました。

 

紙を手で漉いている村も訪ねました。わが国では槽(ふね)に紙の原料を溶き込み、簣(す)で次々と漉きあげて和紙を作りますが、その村では簣に紙の原料を1枚分ずつ溶いて水を切り、紙を作っていました。もっと驚いたのは、槽にはビニールのシートを、簣にはビニールの網を活かしていたことです。活かせるものは何でもめいめいが器用に活かしてしまうようです。
レンガ作りの仕事場では、粘土をを掘ったり運んだり練ったりする力が要る危険な仕事は男が担当し、型枠から出てきたタタラをレンガのサイズにあわせて切ったりそれを干し場に運んで並べたりする根気の要る仕事は女性が受け持っていました。

 

68の部族や民族から成り立つラオスは、ベトナムにくみして米軍の猛爆を受けています。鍛冶を得手とするモン族の村も訪ねましたが、米軍が用いていたバッテリーケースを焼入れの容器に活かし、米軍が捨てたドラム缶を原料にした製品も作っていました。爆弾の破片や戦車の残骸も原料にしたことでしょう。火入れには、鞴(ふいご、手で操作する送風道具)に替えて、落ち葉掃除用の小型のブロワーを活かしていました。なおモン族は、アメリカの誘いにのってくみしており、冷たい目にあっています。

 

ラオウイスキーと呼ばれる蒸留酒は、木の樽(右)を使って、家族や近しい人など顔の見える人を対象にして、軒先などで造る家族労働から生まれていたようです。それが今では米軍が残したドラム缶 (左) を器用に活かし、観光客相手の販売に力を入れる家族が現れています。

 

エッフェル塔を造った人の作といわれるノンビエン橋は傷だらけでした。その補修の跡を見つめながら歩いているうちにさまざまなことを考えてしまい、胸が熱くなり、困りました。だから帰路は、考え事をしないために歩数を数えたのです。2504歩、全長1500mはありそうです。渡りきった時に、小泉さんが言う「いろいろ」は、多様性ではなく「でたらめ」と同義語だったんだ、と気づきました。

 

銃弾痕が生々しく残っています。 投網漁の船では、舳先で網をうつのは夫が、船尾での操船は妻が担当していました。父の手さばきを見学していた息子は、大きな魚が網にかかるたびに父から受け取り、母親の近くに走って生簀に入れながら、岸の方に視線を向けていました。私は遠方から眺めていたのですが、目があうと息子は手を振り返してくれました。
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