『BIESE』早春号(プレジデント社から2000年1月15日発売)で
「住宅資金三分割のすすめ」と改題して紹介されました。

「エコライフガーデンと流行」
 早くから手を打っておいてよかった、と思うことが私にもある。そうと気付いた頃から、それを多くの人にも勧めてきた。もちろん今も、「あの時に始めておけばよかった、と20年もすれば悔やまれるよ」と若者に説き、秘策を授ける。

 ある一点で、私たち夫婦は心を一つにしてきた。そのおかげだろうか、今では「40年かけて森をつくった森さん」とか「森の精の小夜子さん」と紹介されるまでになった。だから、3百円×40年=6百万円という計算式まで披露する。それは、40年前に植えた3百円の桜の苗木が、今は大木となり、もしその木を枯らしたら、6百万円ほどかけないと同じ所に同じような木を取り戻せない、と知ったからだ。

 それはさておき、京都にあるわが家の1千坪の庭には、大小とりまぜて約2百種1千本の木が、燃料、果樹、薬木、香木などと、それぞれの役割を担って茂っている。だから、庭でとれた椎茸を焼きながら早春を、吸い物に山椒の新芽を見て春を感じる。ヨーグルトにのったブラックベリーで夏を、色とりどりの柿の葉寿司で秋を、橙の実を絞って鍋物のタレをつくりながら冬を、感じる。

この程度のことは、その気になれば、今からでも誰にでもできることだが、つくづく私は「早くからやっておいてよかった」と思う。さまざまな木を苗から育て、それぞれなりのありがたみを実感するには、何年も、何年もかかるのだから。

1979年、私は勤め先を大阪から神戸に変え、社長室長の席を与えられた。だから、結婚をひかえた社員からその旨の報告を受ける立場となり、秘策を授け始めている。それは、多くの若人が、会社の住宅ローンで最寄りのマンションを買い、新居にしたがっていたからだ。その多くは、ポートアイランドという人工島にできた値のはるマンションに憧れ、それはバブルの前のことだったが、3LDKで3千7百万円もした。

「どうして、マンションにするの」と、私は質問し、「同じ大金を使うなら、もっと有効な使い方はないの」と、持論の3分割法を開陳した。たとえば、3千7百万円も投じるなら、1千万円・1千万円・1千7百万円と3つに分けて使う方法である。

「まず最初の1千万円で、なるだけ広い土地を買う」。通勤に片道2時間ほどかける気なら坪1万円で買えた。路線バスも走っていないところを選び、最寄りの駅まで自転車やバイクなどを使って3時間ほどかける気なら、坪千円の土地もあった。

「そこに1千万円で小さな家を建てる。そして、日曜は奥さんと2人で木の苗を植えたり、畑にしたり、池を掘ったり、と自分たちの理想の住処にしていくんだ」

「残りのお金で、(会社の)近くにワンルームマンションを買い、ウイークデーの根城にする。時々、奥さんに来てもらったらいい」

それは、私が実践していたことだった。神戸の会社では、夜は10時11時まで残業するのが当たり前のようになっていた。だから、私は会社の近くに小さなマンションを手に入れ、前線基地にしていた。週に一度妻が泊まりがけで来て掃除や冷蔵庫の整理などをした。今も大垣にウイークデー用のねぐらがある。

こうした手をとったから現在の住処を創りだせたのだと思う。資産家の生まれでもないかぎり、それなりに先を読み、工夫をしなければ、森のような住処は創れない、と思う。

わが家の庭は、元はといえば、食料増産のために戦時中に開発された山裾にある赤土の傾斜地だ。病身の父は、都市爆撃の恐れが生じた西宮から妻子を京都に疎開させ、その地目「山林」の荒地を買い、その近くに あった実の姉の家で間借りをさせ、母子に百姓をして生き延びさせようとしたわけである。

今でこそ、村は百軒以上もの家が建ち並ぶ住宅地だが、当時は土人形づくりを生業とする家と私たちが間借りした叔母の家をはじめ、常寂光寺や落柿舎という庵を含めて建物は16軒という隠れ里のような田園地帯だった。

その後、バブルの時は近くの土地に坪5百万円もの値がついたが、40年ほど前までは坪何千円の世界だった。今から38年前、私が大阪の商社に勤めた1962年の次の年、住宅金融公庫から金を借りて先ず小さな家を建てた。その時で地価は坪5千円だった。

この村の端にある水道も電気もガスもなかった山裾の荒地に家を建て始めた時、私は笑い者にされた。その後も、70年代の始め頃までは、畑仕事をしていると子づれのハイカーに教材にされた。「ぼく見なさい。勉強せんと日曜まであんなことせんなんよ」と。

今の家屋は、8度にわたる建て増しや改装の結果である。それは、必要に応じて広げながら、水と木の性質を巧みに生かすアイデアの集積である。水は気化したり結氷したりする時に熱を奪ったり放出したりする。木は、私たちが体温を35〜36度で保ちたいように、真夏でも28度ぐらいに保ちたいようだ。これら木や水の性質と土の熱容量などを生かして省エネルギー型の家屋にした。だから居宅には冷房設備はない。

この庭創りで最も工夫したことは、野菜や薪の自給をめざしながら、夫婦二人で維持管理できる庭にすることだった。贅沢な庭園にする経済的ゆとりもないし、収奪農法の場にもしたくない。その気になれば、徒手空拳でも、広い土地を手に入れ、生活をうるおす場として生かせることを実証してみたかった。

妻は、年老いた私の両親の世話をやき、庭に縛りつけられた。そのかたわら、人形作家の道を見出し、独自の世界を切り開いた。私も、ちょいと一杯やマージャン、ゴルフやスキーなどのフロー的な喜びは切り捨て、理想の庭を求めて持てる力と時を傾けた。泊まりがけの旅に揃っては出にくいが、代わりに私が朴の木を育て、妻が味噌を仕込み、助け合って朴葉味噌をつくる喜びなどを見出した。つまり、ないものねだりはせず、自らの責任の下に無から有を生じさせ、生きる力を身につけている内に、互いの得手を発揮し合う喜びを知り、ゆとりを見出した。そのゆとりが私たちのライフスタイルを形作らせた。

循環と植物の自生力を尊び、林業と農業を合体させたような有機農法で、自己責任の下に自己完結性を高めている間に、持続性のある生き方を追求していた。それは、日々の太陽の恵みの範囲で生きる工夫のようだ。植物の炭酸同化作用に始まり、落葉樹と常緑樹の工夫した配置や天窓の多用、ソーラー発電など、太陽をさまざまに生かしていた。かくして形を整えた庭を、私たちはエコライフガーデンと呼ぶようになった。

妻は、庭に住み着くキジバトや山から来る狸などと生活を共にしているうちに、次第に庭の一部と化していった。思えば、こうした生き方は、ほんの数10年ほど前までの昔の人が営々と繰り広げ、受け継いでいた生き方、不易の生き方ではないか。その相互扶助関係が生み出すゆとりがそれぞれの文化を形作らせたのではないだろうか。

私たちは、不易の生き方こそが基本だと思うようになり、他人がはやす流行にはあまり翻弄されないようになった。とはいえ、その過程で、挫折しかねない現実も多々感じてきた。それは、国家のありようである。

家を建てると地目「山林」の荒地は地目「宅地」に変わり、固定資産税率が跳ね上がる。現実は逆に、樹木のなかった荒地が山林のごとき森になったが、税率は下がらない。また、自分たちの出す生ゴミや屎尿はすべて肥料に還元し、誰にも負担をかけていないのに減税もされず、上水の使用量にスライドして下水処理料金をとられる、など。

良きにつけ悪しきにつけ、私がこの隠れ里を住宅地に変える先鞭をつけたようなものだが、それが自分の首を締めるようなことになった。

土地を高値で転売しようとするのではなく、いつまでもいつくしみ、土地が生み出す産物などで生きようと努力する人には地価の高騰は威嚇である。

せめて私は家を建てる時に、父から土地を時価で買っておくべきであった。10年で2倍になる金利をつけ、一切返済せずに放っておいても30年で4千万円程度にしかなっていないはずだ。だが、父が死んだ時には途方もない相続税をとられ、懲罰のように感じた。その時ばかりは、売り飛ばして欲望の解放に走ろうとする人の気持ちがよく分かった。

それはともかく、地価は今、恒常的な値下がり傾向に入ったと見てよさそうだから、買い時だと思う。先行き人口減少も見込まれている。後々の威嚇を気にせずに、広い土地を生かした自分らしさ、オリジナルの追求に目を向け、人間の解放を目指してはどうか。税制なども、これまでとは逆に、地球に優しい生き方を奨励する方向にあるはずだ。

仮に、こうした土地が再び値上がりするとすれば、その時は多くの人が、必然的に不易の生活に立ち戻らなければならなくなる時だろう。それは、わが国が食料自給に真剣に取り組まざるをえなくなる20年ほど先のことではないか。

今なら土地はいくらでもある。日本の国土は37万平方キロメートルと狭いが、人口で割ると一人当たり千坪だ。とはいえ平地は2割もない。だからわが家のような傾斜地も活かし、国土の3割程度を生かせばよい。それは世帯当たり千坪程度だ。向こう10年ほどで2千もの過疎村がでるとの予測もある。今なら土地はいくらでもある。

要は見捨てられた土地、見捨てられようとしている土地を手に入れ、創造的でストック的な喜びに目を向け、自力で多くの人が憧れる土地に生まれ変わらせばよい。問題は、何を捨て、何を大切にするかだと思う。

虫やヘビを毛嫌いするのか、人間と同じ生きる権利をもった生き物と見るのか。私たち夫婦は、この点では心が一つになっているはずだ。妻はかつてヘビを見るだけで鳥肌をたてたが、今では庭に棲むヘビの顔を覚えるまでになった。ムカデに噛まれても以前ほど腫れなくなった。昨夏、イラガという毛虫に初めて触れた時、とっさに畑のゴーヤをもぎとり、その汁を塗って激しい痛さを収めていた。これは、人間が本来備えていた能力の触発だろう。野生の薬草や薬木を自らとって使い分けていたころの生き方、不易の生き方だと思う。野生動物は今もそうした生き方をしている。

もちろん、わが家でも科学を重宝している。たとえば家屋。縄文人が用いていた縦穴式構造を採用した上で、防水コンクリートやプラスチックスなど科学の成果を存分に生かしている、など。だが、その逆は避ける。科学を、便利さや横着などのために生かし、不易の生き方をないがしろにする、などは避ける。

世界のすべての人が真似たら地球が破綻するような生き方は警戒すべきだ。逆に、すべての人が真似てよいライフスタイル、生きる姿勢を尊重したい。その一つを私たちは選び、楽しんでいるつもりだから1986年から庭を一般に開放し、不易の生き方を流行に、と願ってきた。すでに、延べ15万人ほどの人に立ち寄ってもらえた。

村には農家は一軒もなく、農地改革までは小作制度が残っており、田畑は農民が通ってきて耕作していた。

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