自然に生きる

「自然は神の芸術である」とかつてダンテは言った。 「なるほど」と思う自然の摂理に従う野生動物はゴミをつくらないし失業におののくこともない。逆に人間は、便利さや安楽さを求めて自然の支配を試み、死の恐怖とか失業や未来への不安まで抱え込んでしまった。

かく私が考えるのは、四〇年来試みてきた私生活のせいかもしれない。

私は、住んでいる間に豊かになる家を作ろうとして、自らが出す屎尿や生ゴミを肥料とする菜園や植樹に努めてきた。世間では逆に、見かけのよさや、便利さや安楽さ求め、住んでいるだけで病気になりかねない家を次々と生み出し、今やシックハウスという言葉まで流行らせている。

わが家では家族の相互扶助関係を大切にし、佃煮は私が育てたトウガラシの葉を、母が掃除し、妻が煮る。風呂は、私が庭で育てた木で薪をつくり、妻がその薪で炊いて二番目に入り、母は最後に使って掃除や戸締りをして出る。世間では、こうしたやり方にわずらわしさや不便さを感じるのか、夫や父とは別に湯をはる妻や子を増やし、佃煮を作る主婦を減らした。

わが家では日々の太陽の恵みの範囲で快適に生きる工夫を重ねるが、世間は簡便さや快適性を求めて化石資源を多用する。

こうした彼我のギャップに疲れると、私は旅にでる。この春は米加州に出かけ、パタゴニア社やフェッツァーワイン社、デービス市やサクラメント電力公社などを訪ねてきた。

そこには、環境破壊、有限資源の枯渇、野生動植物の絶滅などを避けようとする強い意志が見いだせた。永続性のある心豊かなライフスタイルを真摯に追求する姿と繁栄があった。

サクラメント電力公社では、冷蔵庫など省電力製品を購入する人に報奨金を出したり、夏場の冷房電力を減らすために木陰を作る苗木を無償で提供したりしていた。

原子力発電は住民投票によって廃棄し、太陽光や風力など持続性とクリーンさを求めるものに切り換えつつあった。

彼らは、これまでの工業社会は早晩破綻する、と見ているのかもしれない。私はそう見ている。

かつて私は、一足先に破綻した計画経済圏を旅した折に、妻に宛てて次のような手紙を出した。

カザフスタンの百貨店では、ミシンや洗濯機などの工業製品は一種類しかありません。スリップも今期はピンク一色です。逆に、トマトやキュウリなどの農産品は色や形がことごとく異なり、二つとして同じものはありません。日本は逆で、大量生産する工業製品はデザインが多様なのに、農産物は工業製品のように均質です。こうした自由経済圏のきまぐれなやり方も、やがては私たちを破綻へと誘うことでしょう。

昨今、わが国では、捨ててもおしくないような値段で無駄使いの助長をしかねない衣料ビジネスが注目されている。これは、欲望の解放装置のごとき大型小売業と同様に、やがては惨めな結末を迎えることになるに違いない。

自然の破壊が、つまり神の芸術を汚したり枯渇させたり絶滅させたりすることがGNPを押し上げ、豊かになったような気分にさせる社会シテスムは早晩破綻して当然ではないか。

今、求められることは、新たな社会システムを創出し、人々を創造的なライフスタイルへと誘い、そこで不可欠となるモノ創りに切り換えることである。
繁栄こそ先決だ。陣痛を恐れ、問題を先送りするような景気浮揚にかまけている暇などはないはずだ。

ライフスタイルコンサルタント 大垣女子短期大学学長
森 孝之
エコロジーライフindexへ