ヒト〜生活を科学する〜”生活の快と美”

 人間とチンパンジーの差異は、遺伝子でいえばわずか1.6%だといわれる。その差異がなせるわざであろうか、人間は霊長類のなかでは最も大きな脳とペニスを持っている。この現実が、私たちの生活にとても大きな影響を及ぼしてきたように私は思う。この点を省みながら、これから人間が目指すべき生活の方向と地平を探ってみたい。

 狼が食連鎖の頂点に立つ孤島などで、狼が鹿を食べつくして絶滅させたというような例を聴かない。狼は、年老いた鹿、病弱な鹿とか傷ついた鹿、あるいは虚弱な子鹿などを狩る傾向にあり、むしろ鹿の永続的繁殖に結びついている、と聴く。他方人間は、文明化されるに従って、美味しい獲物を求めて繁殖期にはいった若い雌を狙うなど、鹿の繁殖に悪影響を及ぼし絶滅に結び付けかねないことをしてきた。

 アマゾンなどでは、今も未開と呼ばれる生活を続ける熱帯林の住民と文明化の波をかぶった人々とのあいだで衝突が生じている。それは、熱帯林の伐採を生活の場の破壊と見る前者と、生活のための開発と見る後者の意識の差が生じさせる衝突であろう。文明化やそれに基づく工業化は、人間に己の欲望を優先させる方向、あたかもペニスに誘われて脳を駆使するような方向にあったと言ってよさそうだ。

 ダンテは、「自然は神の芸術だ」との言葉を残しているが、文明化された人間は、己の欲望のために自然の支配を試み、神の芸術を絶滅させたり、枯渇させたり、汚染したりする傾向にあったわけだ。特に、近代は、地球環境の破壊や野生動植物の絶滅を深刻なまでに加速させたと断言してよいはずだ。つまり、野生動植物や未開の人々は「神の芸術」を、いわば「美」を尊重し続けているのに、文明化した人間は己の欲望の解放、いわば「快」の訴求に執心してきたと言ってよいのではないか。

 19世紀の半ば、工業化が最も進んでいたイギリスで、機械が生み出す製品に醜悪さを見いだし、その原因に気づいた一人の男がいる。ウイリアム・モリスである。彼は、手工芸労働者が労働の一部として駆使するデザイン活動が機械には欠落していると指摘し、次のような警鐘も鳴らしている。このまま工 業化が進めば、未開国の天然資源が枯渇するまで「略奪と新しい需要の創造」という悪循環が始まり繰り返すであろう。そして、工業化社会は古代の奴隷や中世の農奴より惨めな「賃金労働者」を生み出すに違いない、と。

 略奪とは、未開国の天然資源、たとえば象牙や金などを工業国が手に入れるやり方を指している。新しい需要の創造とは、それまで未開国の生活には不要であったガラス玉の首飾りやタバコなど奢侈品や嗜好品に対する需要を喚起する工業国のやり方を指している。また、奴隷や農奴よりも惨めな賃金労働者とは、機械の代替品あるいは部品のようになって人生を切り売りし、お金のために働かざるをえない勤労者を指している。

 工業化は私たちの伝統的な生活を破壊した。衣生活では、民族衣装の自給から既製品依存へと転換し、消費量を激増させた。住生活では、相互扶助でなりたつ生産の場としての家屋を捨てさせ、工場で生産された既製品の消費の場のごとき空間にしたり、核家族むき集合住宅などを普及させたり、隣は何をする人ぞの生活に追い込んだりしてきた。食生活でも似たことが生じている。

 ついこの間まで、あらかたの家庭では主として主婦が家族のためにメニューを考え、地元で食材を調達し、調理し、家族と一緒に食していた。つまり、「考える人」と「作る人」は同一であり、「食べる人」も同一か顔の分かる近しい関係にあった。ところが、工業化はこの関係を分解し、「考える人」と「作る人」の役割は工場が分担し、家庭には「食べる人」の役割だけを残す傾向となった。さらに、工場は「食べる人」の需要に合わせて生産するのではなく、工場の都合で生産したものの消費を促進するようになっている。つまり、需要のための生産ではなく、生産のための需要の喚起であり、人々は「食べる人」ではなく「食べさせられる人」になりつつある。それは、生活習慣病に苛まれる人々の増加、賞味期限表示の必要性、ストレスやアトピーなど新しい疾病の多発などに結び付けていた恐れがある。

 この間に生活物資は一変した。かつては手作りされたものや機械を使って作ったものであれ一品もの、つまりオリジナル品を用いる生活であったが、今日では工場で大量生産された複製品(コピー)に依存する生活である。コピーはお金さえだせば、誰にでも同じものが手に入る。だからコピーで豊かさや幸せ感を競おうとすれば、他の人より早く買うか、しばしば買うか、沢山買うことになる。それは、お金さえあれば幸せになれるとの錯覚を人々に抱かせ、人々を競争関係に陥れる傾向にあったと見てよいだろう。

 工業化は余暇時間を急増させ、スリルやサスペンスに興じる施設、トロフィーや勝敗に熱狂するフィールド、あるいは架空の世界に一人閉じこもる機器などの開発に結び付けた。それは、機械的にスリルやサスペンスに熱狂したり、ファッションを触媒としてコピーの消費をそそったりした。つまり、万人共通の欲望を刺激しあい「快」の喜びに人々を埋没させ、顔のない人を増やしていた恐れがある。
 今日、こうした社会のあり方に危機感や閉塞感を覚えたり厭世感に苛まれたりする人を増やしている。モノからココロへとか量より質へといった転換の必要性も叫ばせている。たしかに、環境問題、野生動植物の絶滅、資源枯渇、人心の荒廃などの現実を知るにつけて、これまでの生活は物理的にも許容されなくなっていることが分かる。

 しからば、これに代わりうる道があるのか。私は「美」を再発見する道へと踏み出すところにその可能性を見いだしている。生活の指針を「快」から「美」に転換する道である。人間は、他の動物と異なり、ダンテ流にいえば、神をも恐れぬ能力を有している。神が自然を創造したとすれば、絵画、彫刻、建築、工芸、あるいは作詩、作曲、演劇、さらには華道、造園などの創造は人間の大きな脳がなせる技に違いない。

 しかるに、工業化はこうした創造活動に勤しむ人を少数化していたことに気づきたい。食事一つにしても、考える人と作る人の役割を取り上げ、食べさせられる人にしていたなど、ささやかな創造力さえ不要とする生活に人々を陥れていた。

 私たちは、「考える人」と「作る人」の役割を自らの力で取り戻し、その二つを合体して「考える人×作る人 = 創る人」へと自らを成長させるべきではないか。そして、これまでの欲望を解放して 「快」に狂奔する量的な消費生活から、「美」を追求して人間の解放を試みる質的な創造生活へと転換してはどうか。「美」を追求する生活に踏みだし、「足を知る心」を復活させ「快」を追求する行為を、尊敬や感謝の念がともなう共感の行為へと質的に向上させてはどうか。かくして、オリジナルの人生を創造的に切り開き、自己実現の道へと踏み出したいものだ。

                                                                                                                                                                                         
ライフスタイルコンサルタント 大垣女子短期大学学長
森 孝之
                                                          
                                                    

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