このページはアイトワ塾生のページです


アイトワ塾は、『ビブギオールカラーポスト消費社会の旗手たち』(森孝之の処女作)をきっかけに、京都の西陣を中心に活動する青年経営者が中心となって1988年に誕生しました。

バブルという言葉が誕生する前のことで、世間では「消費社会」を謳歌しはじめていた矢先に、「ポスト消費社会の旗手」という副題が付いた本が出たので興味を持ちました。

毎月1度アイトワに集い、勉強会を開きます。他に毎年のように、塾生一泊研修、家族を交えたバーベキューやハイキング、夫婦連れ忘年会を重ね、今日(200年現在)に至っています。

最近は、塾生一泊研修にゲストをお迎えすることも試みています。


アイトワ塾  岐阜県合宿   文  森孝之

2003年8月9日〜10日

出発を予定していた前日の夜半から台風が京都を直撃していましたが、2003年8月9日の土曜の朝、予定通りに9時に西陣織会館前に集合し、キャンピングカーとステーションワゴンの2台に分乗して出かけました。
昼食は、幹事の舞鶴さんがウナギ屋を選んでいました。舞鶴さんは学長になったばかりの私と一緒に一度ここで食べたことがあります。大垣では有名なウナギ屋のようですが各人は好きなものを注文し、いずれも満足のようでした。



次に「ウダツがあがる」という言葉や「美濃紙」で知られる美濃市に立ち寄りました。今井家という旧家を見学しましたが、京都の文化を色濃く取り入れていたようです。「ウダツ」は防火が狙いであったようですが、古い町並みが保存され、電線は地下埋設されているようで、快適にそぞろ歩きができました。  
まだ日が高い内に合宿場の岐阜県立森林アカデミーにたどりつきました。台風は私たちを追い抜いたようで、合宿場についた頃はすっかり空は晴れ上がっており、日照りを避けたくなるほどでした。木造の立派な学舎が丘の林の上にたたずんでいました。ここの学生はここで二年間学ぶそうですが、全部で80人とか。恵まれているなあと思いました。夏休み中ですからガラーンとしており、私たちが借り切ったようなものでした。  


早速風呂を浴びていると、講師にお招きした先生が到着され、一緒に風呂を使われました。かつて京都の大原で合宿したときにもお招きしていますから顔なじみです。この先生は哲学や教育学がご専門ですが、ユダヤからイスラムにいたる3つの一神教を歴史的にかつ等間隔に研究されており、とても明快に解説されます。

大原での合宿とこの合宿の間に、アメリカはイギリスを道連れにしてイラクに侵攻していますが、3つの一神教について学んでいた私たちの多くはアメリカの読みは甘いと見てきました。何事も渦中に入ると判断を誤りやすくなるのでしょうか。わが国の選択が吉とでるのか凶とでるのか分かりませんが、とても心配です。

講師との再開も祝し、ワインとビールで乾杯をし、夕食のあと2時間の講義を受け、再び食堂にもどって12時まで議論をしました。その時は清酒や焼酎なども振る舞われましたが、よく飲みよく語る仲間ですが誰一人として酔っぱらったりトンチンカンなことを言いだしたりする人はいません。むしろ余計に鋭くて端的な発言となりますから時間を忘れさされてしまいます。  

夕食はキャンピングカーの持ち主である伴さんの奥さんが前日から用意されたライスカレーやサラダと、後藤さんが急逝した仲間の入沢さんを忍んで、入沢さんから学んだ方法で調理したラム肉の料理でしたが、いずれも好評でした。講義後の議論は花が咲き、空腹を訴える人が続出し、おつまみではらちがあかず、翌朝用のパンまでだしてカレーをすくいとるようにして食べ切ってしまいました。美味しいカレーでした。

林の中に建つ学舎の夜は静かに更け、5つのツインルームに分かれて休みましたが、心地よい風が網戸越しに流れ込み、肌寒いほどでした。後藤さんは早朝くから起き出し、朝食用のパンなどを仕込むために車で山をおりていました。他の幾人かが朝食の準備にかかり、残りは7時過ぎまで寝てから一風呂浴び、朝食を待っていました。

議論の花は出立の10時ぎりぎりまで咲きましたが、幾人かのメンバーは議論に耳を傾けながら後片付けに当たっていました。この仲間は、それぞれが勝手に得手を出し合い、何事も分担しありますから手早くかたづきます。  




講師には「また声をかけて下さい」と喜んでいただき、学校の教務の方には「また歓迎します」と言ってもらい、仲間は「一泊では惜しかった」と語りあいながら、林間学校のような合宿場を後にしました。帰途も楽しいことが多々ありましたが、クライマックスはキャンピングカーの運転を変わっていた後藤さんが車にキズをつけたことです。

背が高い車ですから後藤さんは寸法感覚を間違ったのでしょう、古い町並みの軒先の瓦屋根に接触し、瓦を落とし、2メートルほどにわたって車を凹ましました。後藤さんはビックリしていましたが、持ち主の伴さんは落ちついたものです。たぶんこのキズは記念として補修しないのではないでしょうか。

台風は京都を直撃したコースを選んで通り過ぎましたが、ほとんど被害はなかったようです。「合宿は決行」と判断してよかった、と皆さん胸をなで下ろしたことでしょう。


アイトワ塾  丹後研修旅行
2000年6月18日〜19日

初日 8時30分アイトワを出発し『府民の森ひよし』にて森林資料館見学、 続いて日吉ダム見学、日吉ダムは、日本で唯一ダム内部が見られるダムです。 内部には、ギャラリーやダム建設の資料、水没した村々の写真など展示されて いました。何らかの必要性があって建設されたのでしょうが、故郷を追われた人々 や大きな環境破壊のことを思うと複雑な気分でした。
日吉ダム

出石町名物「皿そば」
昼食は、兵庫県の出石町で名物の『皿そば』を食べました。 皿そばとは、在来のそばに、宝永三年 (1706)信州上田城主・仙石氏 と出石城主・松平氏とのお国替えの際 に仙石氏がそば職人を連れてきたこと で、その信州の技法が加えられたこと が、始まりとされています。
江戸末期 より白い出石焼の小皿に盛り付ける5 皿一組を一人前として提供し、追加に ついては、枚数をいって追加します。
その後出石町を散策しました。 森先生の旧知の木彫り作家の工房がある、とのことで 早速住所を調べ連絡もしないまま訪ねましたが、 あたたかく迎えていただき、貴重なお話をお聞きできました。
自然の懐にいだかれた環境で喧騒もなく、 周囲に煩わされることもなく自由に創作活動をされているのは、 うらやましい限りでした。
5時頃宿舎である『丹後おおみや』(国民年金健康センター) に到着、入浴・食事のあと研修室において勉強会を開催しました。 今回の教材は、森先生の論文『グリーン・デザインの方向と地平』 で約3時間活発な討議が行われ、部屋に帰ってもその討議は深夜にも及びました。
「丹後おおみや」(国民年金健康センター)

大内峠より天橋立を望む

2日目 9時出発、丹後縦貫林道「大内線」を経て 天橋立を一望できる展望台に到着、真一文字に天橋立が眺望でき絶景でした。 そのままアイトワまで直行し午後1時頃に帰着、解散いたしました。 今回の研修旅行で、学んだ事は参加者一人一人の心の中で 根ざし未来を見据えた生き方・ビジネスなど確立する上での おおきな指標が出来たのではないかと思われます。


アイトワ塾を振り返って

毎夏のBBQ


ゲストを迎えた暮れの催し

ゲストを交えた勉強旅行

喜寿を迎えた

ゲストを迎えた合宿勉強会

研修旅行

アイトワ塾は、2019年まで31年間も途切れずに続きました。
それは、“森孝之の処女作を1年かけて読み解く月に1度の読書会” として始まりながら、2年もかかってしまい、その時には次著『人と地球に優しい企業』が誕生しており、「これも」になったからです。
その後、次々と生まれ出た新著を題材にとり上げており、無期限の勉強会のごとくになり、私にとって、とても大事な宝のごとし、になりました。
さまざまな分野の時の方々をゲストスピーカに迎える合宿も回を重ね、ゲストの皆さんに、塾生の熱心な受け入れ方を高く評価していただきました。

この間に、塾生の手で “アイトワのホームページ” が誕生したり、塾生の後藤佐次郎さんとタッグを組んで週記「自然計画」を軌道にのせたりしています。後藤さんは、私が心臓疾患で入院した時は、ベッドにノートパソコンを運んで下さるなど、週記を途切らさずに済ませる工夫をして下さった。「今週の花」という新企画の発案も後藤さんです。

やがて、西陣を中心に活動する青年経営者が次々と還暦を迎え、中には第一線を退くなど、潮時が巡って来ました。また「自然計画」も「週記ではしんどい」になり、月に1度の月記に改めるなど、「ここらで」との気分が生じ始めました。それを契機に、解散した次第です。

延べにすると、塾は合宿やパーティーを含めて400数十回開催。「自然計画」は2001年7月から867回。そして「今週の花」は、2010年4月からあしかけ8年、91回を数えています。間違いなく、私にとっては生涯の宝になりました。

その後、良き若者との縁が出来て、「新・自然計画」に移行しており、これまでのところ、一度も途切れを生じさせずに “21年間にわたる家庭人の農的記録” を残せています。

(2022.7.26 森孝之 記)