太陽+緑=住みやすさ

わが家では太陽の恵みをことのほか大切にしている。ことの始まりは50年前にさかのぼる。

太平洋戦争の敗色が濃くなった1945年の春、父は医者に見放され、疎開先の家族のもとに送られてきた。重度の結核だった。

なれない農業をして子どもを育てていた母は、看病という仕事まで背負いこんだ。それは子どもの私にも、より一層太陽の恵みにすがった生活になったことを感じさせた。

父は二階で闘病生活に入ったが、母は晴れの日は南に面した窓先で寝間着などを干していた。もちろん母が二階に運び上げる食事も、太陽の恵みに依存していた。

わが家の農法は、屎尿と自分たちで作る堆肥を肥料にしていたが、あとは水やりと太陽の恵み次第というありさまだった。

飼っていた鶏やヤギのだす糞も貴重な肥料だったが、鶏やヤギも晴天を好んだ。世話係りの私は「太陽さまさま」だった。えさとなる野草は日陰では育たないし、冬用の干し草作りも太陽次第だった。第一、雨の日は草刈り一つが大変だった。

父は数年の闘病生活の後に奇蹟的に回復した。医者は「太陽の恵みのおかげだ」と語っていた。

もちろん、その後もわが家は太陽の恵みを尊重している。ソーラー温水器をとりつけたのも早やかったし、京都ではソーラー発電機をとりつけた民間人第一号と聞かされている。もっと大切にしているのは、太陽の恵みと緑の組合せだ。わが家は東西にのびた家屋だが、この恩恵をふんだんに取り入れている。

家屋自体は、二十数年の歳月と七回の工事を経て建てましたり継ぎ足したりしたもので、その時々の都合や懐具合に左右され、不統一な部分が多い。だが、そこでは常に一貫した考え方を貫いていた。それは太陽の恵みと緑の組合せを尊重する考え方だ。

南と北に窓の多い風通しの良い構造だが、その風を季節ごとの太陽と緑の組合せで調節している。

屋根をガラス張りにして冬場の太陽の光りを充分に取り込み、寝室を温める工夫もしている。広縁の前には三十年前に苗を植えたスモモの大木がある。落葉樹だから、冬場は葉を落とし、太陽の光りを通す。逆に夏場は幾重にも葉を繁らせ、光をすっかりさえぎってしまう。窓辺に朝顔を育てるのもよい。これらは誰にだもできる工夫だろう。おかげで、居宅では冷房機を使っていない。

朝日新聞関西版 コラム『くらし考』 連載より1995年8月19日分

ライフスタイルコンサルタント 大垣女子短期大学学長
森 孝之
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