同期で初めて海外(ニューヨーク)駐在した友が、一書を出版したことを知りました。この友のおかげで、私は人生観を変え始めています。
それまでの私は、安倍さんが流行らせようとしているように見えるナショナリズムに近い意識を持っていたようです。庭に7mもの国旗掲揚台を設け、日の丸を翩翻(へんぽん)と掲げていました。高校時代から大学時代にかけてのことです。妻が嫁いできたときは、まだその国旗掲揚台は残っていましたが、国旗の掲揚はやめていました。もちろん今も大きい日の丸は残していますし、早く胸を張って国旗を掲げられる日本になることを夢見ています。
なぜ意識が変わったのか、そのきっかけはこの友のアパートに転がり込んだことでしょう。テレックスと呼んだ私設の電報で、この友に、出立前に、飛行機の便と到着日時と「泊めて欲しい」とだけ知らせ、飛行機に乗り込んでから「友は迎えに来てくれているのか」と心配しています。FAXや携帯電話などは噂も聞かなかった頃の話です。
翌日の日曜日、友は私を置いて、先約していたゴルフに出かけました。私は下着とワイシャツのスペアーの他は着のみ着のままの背広姿で出かけていました。だから友は、夫人から届けられたまま置いてあった浴衣や下駄を貸し与えてくれました。当時は、海外に駐在して2年を経過しないと妻を呼び寄せさせなかったのです。
その浴衣姿で私は散歩に出かけました。近隣には「キュアーにいた」という男を始め、日本を知っているという人も幾人かいました。彼は呉(KURE)をキュアーと記憶していました。そんなこんなで、最後の方は、郊外の街並みを一軒ずつ訪ね、せめてビールの一杯は傾けないと済まないような事態になってしまいました。次の家の人が待ち構えてくれたからです。
「森君は行方不明になりよったんだ」と友も口を挟みました。「寝巻き姿で出かけよって」「英語もしゃべれんくせに」「大騒ぎしてたら、酔っ払って帰って来た」
次の出張では、この時の出張の帰路で知り合った青年を頼ってグリニッチヴィレッジにあったアパートで逗留しています。当時は、そんなところに踏み込めば生きては出られない、と上司に叫ばすような誤解を与えていたところです。しかし私には快適で、最も平和的な人が住んでいるところではないか、との印象を受けています。ヒッピーの巣窟でした。
やがてヨーロッパにも出かけるようになり、特にドイツでは、戦争がいかに人間を狂わせるのかを学びました。それを体験者が反省し、戦争とは何かをあからさまにし、その責任や被害を分析し、償い、不戦を誓い、後世に恨みや借りを付回させないことが大切だ、と考えさせられています。そうすれば、恨みが尊敬の念に替わることさえある、と学んでいます。
そんなこんなで、アイトワでは理念の第1に「地球人としての認識」の下に、との文言を選んでいます。地球人としての認識の下に、日本に生まれたことを誇り、胸を張りたい。少なくとも井の中の蛙にはなりたくない。蛙には組したくない。
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