貴重な体験
 

 とにかく、携帯電話が何の役にも立ちませんでした。停電でコンピューターが使えず、テレビもつかないとなると、完全に情報を遮断されたような気分にされます。携帯電話に慣れてしまった人は、たとえば待ち合わせの時間と場所の特定でさえ事前にしておけなくなるようで、ただハラハラ、ウロウロさせかねないようです。そのウロウロがクルマで、となると、交通網も遮断しかねないことも体験しました。

 下記のメールは、アメリカやNZからもらっていたメールへの返事です。地震翌日の24時過ぎに発信しています。

 余談ですが、このメールを発信しながら、通院で触れた若き担当医は、こうした事情が生じた時は、何としても薬を供給し続ける、命がけで届けて見せるとの決意のうえで、「分かりますか」という言葉を2度も3度も発していたのであろうか、と考えています。

 もちろん私は、天災などで薬を手に入れられない事情も生じかねない。薬物依存症になったら(薬の供給を受けられなくなると)余計に心労を深刻にしかねない。過去に、薬害障害問題が生じたこともある。などとも訴えています。その上で、そうした事態も配慮して、私の体を使って薬なしでも生きられる体に戻せる可能性があるのかないのかを確かめてほしい、実験をしてほしい、と訴えています。

 余談の余談ですが、今回の出張には翌日分の薬を持参しておらず、飲んでいません。

 


お見舞いありがとうございました。
地震が起きたときに、
日帰り出張の予定で出かけており、東京にいました。
その後、事情がわからないまま、わけあって友人とタクシーで茨城県に移動し、
たった今(翌日の24時過ぎ)、茨城県から帰ってきました。
そしてテレビで、茨城県が死者を最も多く出したようだと知りました。
ヘトヘトですが、元気です。

地震が起きたときに、
東京駅の近くにあるビルの13階のレストランにいました。
東京駅に着いてから1時間後のことでした。
第二次関東大震災を体験しているのだ、と思いました。
それほどの揺れたのですが、
何故か落ち着いていたようで、
カプチーノをすすりながら揺られるに任せていました。
もちろん悲鳴を上げ、抱き合ってしゃがみ込む女性たちもいました。

ビルから追い出されてみると、
潰れたビルは1つも見当たりません。
意外でしたが、大勢の人がたたずんでいました。
携帯電話は全く用をなしません。
公衆電話は見当たりません。
JRの駅で情報を求めようとしましたが、
全線不通というだけで、要領を得ません。
電話がまったく役に立ちませんから、
ホテルの予約のしようもありません。

打ち合わせをしていた相手は茨城県の人でした。
子どもたちなど家族のことが心配だ、とのことで、
タクシーで帰ることにされました。そこで、
連れていってもらえるように頼みました。
一時避難して、翌日帰途につこうと考えたのです。
茨城県が被害の大きいところとは思っていなかったのです。

その道中でのなんとか通じた電話で、
茨城県は東京都より被害が大きい地域と知りましたし、
この道中で、ラブホテルでしたが見つけてもらいましたが、
東海村のお宅まで連れていってもらうことにしたのです。
結局、かさ高いお荷物になってしまったのです。

八重洲口から5時間(計算しなおすと7時間)かかってたどり着きましたが、
その方の家の中はぐちゃぐちゃです。家屋にもヒビが入っていました。
なんとか、ベッドに入ったのは深夜でしたが、
15分から20分間隔で予震に襲われながら眠りました。
翌朝、東京駅から通じたという最寄りの駅まで
車で送ってもらえる人を見つけてもらい、
10時に出発。取手というJR駅に着いたのは20時です。
東京駅で飛び乗った新幹線は最終列車でした。

なんとか無事に帰宅しました。
ご心配をおかけしました。
元気です。

孝之



 それはともかく、主だった国の都市では、旅行者が多く集まる空港などに、ホテルとの直通電話が並んでいるわけがわかったような気がしました。そうした電話で、泊まれるホテルがあるとわかれば、1時間でも歩いて行けます。