やむなく
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学生に掘ってもらった穴を「6倍ぐらいに広げよう」と思っていたが、手を付けて見て、欲が出た。とはいえ、なにせここは、かつて一度開墾してキウイの苗を植え、その後何十年も経たところだから、再開墾のような苦労を伴った。だから躍起になった。 ふと気づくと汗をにじませ、息が切れており、過日のエンジントラブルのごときいやな感覚がした。急いで手をとめた。だからといって、中途半端ではやめたくなかった。もちろん、無理をして、ヘタすると、また妻にグダグダと説教されるに決まっている。 実はこの時、ボツボツ妻が「出て来てもよさそうなのに」と思っていた。金太の家を元に戻したい、との意向を示していたからだ。2人で金太の家を元に戻せば、この日のうちにやり遂げられ「気分よくなる格好のテーマだ」と期待していた、だが、まだ出てこない。 日はすでに西山の稜線に落ち、薄暗くなりかけていた。その時に、「あった」と思いついたのがこの、問題のサルスベリの切り取りだった。でもこれは、あまりにも簡単に終わった。日は落ちると、にじませていた汗が冷たく感じられた。そこで、「いっちょうヤルカ」になった。1人で金太の家を元の戻すことにした。 屋根材を変えるなどの加工を施しており、小屋はとても重くなっている。逆に私は非力になっている。「そうだ、丁度良いメモリアル(作業)になる」と考えた。 金太の家を持ち上げて、10歩ばかり歩き、3段の石階段下に止めてある一輪車に乗せることができた。その気になり「やり遂げられた」とのメモリアルができた。 妻に言えば、「それが、ナンデスカ」と笑う。笑うというより怒る。私は説明が難しいから「ハイ、ハイ」と受け流すが、「かわいそうだナ」とさえ、思う。大事なことを、文明のせいで、見失わされている、と見る。 こうしたメモリアルの積み重ねがアイデンティティを確かにする根幹ではないか。人生とは、いかに死ねるか、ではないか。だから私は、「人生観」より「死生観」の方を尊重している。だから私は、かつて父の死期が迫った時に、あれほど躊躇したのではないか、とまで思い出した。思い出しながら老骨にムチを入れた。 おかげで、カラダは再度火照り、洗面所に戻って裸になり、汗をぬぐい、着かえる間じゅう寒さを感じずに済ませられた。そして私は「運のよい男だ」と己を振り返った。 |
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