アブストラクト

 

 私は、人生にとって好奇心とアブストラクトの2つがとても大切ダと思っている。もちろん、こう気づくまでには随分時間を要したし、未だにうまくアブストラクトできた、と得心した体験はめったにないが、それがむしろ、つまりこれでヨカッタのかなどと迷うことがよいことではないか、と思っている。

 かつては、好奇心だけで動いていた。あえて言えば、好奇心と先入観に動かされていたようなものだが、いつしかそれではマズイ、と思うようになっている。

 それは、先入観や、自分勝手に膨らませた願いに振り回され、痛い体験を重ねるうちに気付いたところだ、といいたいが、そうではない。気付かせてくれた人がいる。

 その人のおかげで、まず取捨選択の大切さを教わった。だがこの課題は難しい。興味のあることは、悪いと分かっていても捨てられない。止められない。悩みに悩んだ挙句の果てが、捨てるのではなくアブストラクトであった。抜粋だ。抽象化だ。抽象化する努力だ。

 実は、こう思い付いた時に、思い出したのがかつての上司だった。「運も実力の内」という言葉を最初に教えてくれた上司だ。その人はアブストラクトする力の是非が、「運」の強い人にするか否かの分かれ目だ、と私に気付かせようとしていたに違いない、と今では思うようになっている。何を切り捨て、本質と見るか。見ることができるか。

 たとえば「『創る喜び』と『つぶす喜び』」。この言葉は(1970年ごろから用い始めた)私の造語だが、「運を強くする」うえで避けて通れない1つのハードルのように考えており、用い始めている。このどちらの喜びを大切にして取捨選択するか、難しい問題だが、それが人の運を、いや運のツキを大きく左右するように思われてならない。

 興味を抱いたモノやコトが、そのいずれであるかを瞬時に嗅ぎ分ける力が望まれそうだが、まずはそのクセを身に着けなさい、とその人は私に気付かせようとしていたのではないか。今では思うようになっている。

 例えて言えば、当週の砂利道の始末。これを「嫌だ」「嫌な仕事だ」と思うか否か。私の場合は「嫌だ」とは思わなかった。正確にいえば「私の出番だ」と思った。

 あえていえば、そう思って手を付けながら、つまりウキウキとして手を付けておきながら、「なぜこんなことに手をつけてしまったのだろうか」と反省した。「待てよ」と思ったわけだが、同時に、これでよいのだ、と思った。上司のことを思い出したからだ。「私の出番だ、と思えるようになりなさい」と、教えられたことを思い出したわけだ。

 そう思えるようになれるか否か、が「運も実力の内にできるか否かの分かれ道ダ」と教えられたように思う。問題は、その原因の特定だ。「私の出番だ」と思ってよい原因であるか、思ってはいけない原因であるかの見極めダ。それが問題ダ。その是非をうまく見抜けるか否か、が問題だ、と上司は話していたように思う。

 その見分けは難しい。頭で考えたのではダメだ、と聴いた。あえていえば、頭で考えて出した判定は、あらかた間違っている、と聴かされたように思う。なぜなら、考えている間に幸運の神を通り過ごしてしまう、「運の神には後ろ髪がない」と聴かされた。

 そこで、考えあぐねて末に、私なりに出した結論がある。それが、「『創る喜び』と『つぶす喜び』」という造語を考え出した話になる。そのどちらにシフトするか、それは自分次第でどうにでもなる。身体に覚えさせられるし、勝手に体が動き出してくれるだろう。

 私は維さんにも「運の強い人になってもらいたい」と思っている。