私の目をいかに処置すべきかを見定める1日で

 

 ついに、目の手術をするために入院するはめになり、その手続きもして帰宅したが、人間とは因果な動物なんだ、と自覚する1日だった。

 目の再検査で午前中をついやし、主治医の呼び出しを待つことになった。その間に、「患者さんへの説明書」と「院長宛の同意書」が手渡され、その趣旨の説明を受けた。「説明書」には、「黄班」の写真と説明文があり、「研究の方法や期待される成果」あるいは「この研究への参加」への呼びかけが盛り込まれていた。私はある期待を込めて同意した。その上で、呼び出しを待つことになった。おかげで、1時間余もじりじりと、昼食に行くわけにもゆかず待たされながら、退屈せずに済んだ。

 「黄班」のことは(この主治医を紹介した)町医者の眼医者の検査時に判明していた。白内障だけでなく「黄班」という目の大事な部分にも問題が生じているらしい。それだけに、「同意書」に期待を込めて賛意を示したわけだ。京大はiPS細胞で有名だ。

 「説明書」には「同意撤回書」が添付されていた。気が変わる人がいるのだろう。だが私は、いつか新聞で「黄班」の治療にiPS細胞を活かす治療法が進んでいる、と読んだような気分になり、むしろ期待で胸を膨らませたわけだ。

 この待ち時間に、新聞でよき知識を得たおかげだ。京大の総長・山極寿一の寄稿だ。現人類は一時(まだ文字も農業も発明していない時点だから)1万匹(と呼んでよいだろう)程度まで減少している。だから、10万匹程度までの減少で済んだチンパンジーには見られない病気に人間は悩まされることになったという。21世紀は「人間の定義」をし直さざるを得なくなる世紀と見ている私は、膝を打った。

 実は前日、臼歯を1本失っていた。朝食中に「ゴキッ」という感触と共に右上6番目の歯がグラグラになった。その歯を夕刻までかけて、ことあるごとに舌でひねり回し、夕食までに取り去っていた。そそれだけに、いよいよ動物として年貢の納め時になったわけだ、と少々寂しくなっていた。

 目も、歯と同様に、50年ほどもてば十分との前提の器官ではないか。ならば、と考えなくもなかったし、まだ私は、少しは地球の延命に(人類が健やかに生き残りうる環境を維持した状態に留めるうえで)貢献したいし、貢献できるのならば、と考えなくもなかった。それよりも何よりも、付き合わせた妻が心配そうな顔をしているので、なんとかと考えた。

 次いで、読みかけて終っていた過日の『本』の一文の続きに目を通した。目の前の切りが晴れたような気分にされたし、読みかけたところで私が想いを巡らせたことが、妥当であったといった。だが、いかにも私が用いた比喩は幼稚であった、と反省した。話しはもっとどす黒く、悪質で、 深刻であることになこと気付かされた。ともかく、空腹を忘れた1時間余になった。

 実は、妻に付き合わせたのは、心配させるためではなかった。入院したことがない妻は、病院のシステムを知らない。また、妻も早晩、目の治療を要することになるだろう。その頃は一人になっているだろうから、ここらで治療を受ける手続きを学習しておくべし、と考えてのことだった。

 いろいろあったが、結局、10日の入院を要する施術でありながら、黄班の治療ではなかった。