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「何も買わない誕生日」01/11/27

Buy Nothing Dayが、朝日新聞にとり上げられたそうだ。池田さん、すっかり時の人だなあと感心してしまう。そう言えば宇井眞紀子さんの本も書評で取り上げられていた。新聞めくっていて身近な人が載っているとびっくりして嬉しくなる。

この何も買わない日は、たまたま私の誕生日であった。妻に「買い物は前の日に済ませておいてね」といったのに、何も買わなかったようなので、それはそれは質素な一日となった。本読んだり、外で息子達とサッカーボール蹴って遊んだりしてたら日が暮れてしまった。小学一年の息子達が、昼食に焼きそばを作ってくれたのが唯一の特記事項だった。

とりあえず、意識的にお金を使わない一日を過してみて、何の苦痛もなかった。もともとモノに興味をもてないタチで、それでも買い物しなければならない時は、一番最初に目に付いたものをそのままレジにもっていってしまう私にとっては、まさにうってつけのイベントである。1年に1回じゃなくって、月1回くらいあったら効果的かもしれない。イスラム教の断食だって1ヶ月も続くのだ。(尤も、ラマダンの場合、昼間の断食のリバウンドで消費は却って増えると聞いたことがある。)

さて、連休中は、「魂の保護を求める子どもたち」(トーマス・J・ヴァイス著、水声社)という本をずっと読んでいた。著者は、シュタイナーの治癒教育共同体、キャンプ・ヒル運動の創設者の一人である。

私は、「うーーん、そうだ、そうだ。」と深くうなづきながら、珍しくいっぱいこの本に線を引いてしまった。

藤沢さんが面白いことを書いているので、ここで私も書かせてもらうが、シュタイナーのキリストの理解はなる程と思う。「キリスト、つまり神が、人間であるイエスに降りてきたというのは、すべての人間が神たりうる(あるいは、神そのものという)ことの象徴なのだ。」という風にシュタイナーは解釈しているようだ。一方、一般的には、長い歴史の中で、こう解釈されてきた。「イエスは神様で、イエスを信じるものは天国に行き、その教えに背くものは地獄に落ちます。」きっと教会という支配構造をつくる為に、こういう解釈が生まれていったのだと理解できる。

さて、私が障害者の世界に興味をもつのは、(別にカミングアウトするわけではないが)、とりもなおさず、妹が分裂病を患っているからである。だから、今年の6月、分裂病患者と思しき人が、小学校に押し入って小学生を虐殺をしたという事件は、実は私にとって二重の意味でショックな出来事だった。その日に子安美知子さんと出遭ったということは、これまた象徴的だとしみじみ感じる。

この病気、ドーパンミンというホルモンが過剰に分泌することで幻覚/幻聴が起こると一般的に理解されているが、その原因は今だ殆ど分かっていない。うちの兄弟の中で一番情緒が安定して、人あたりの良かった妹が何故この病気になったかということは、私にとって大きな謎である。原因はよく分からないものの、現在では、副作用の問題はあっても、薬で幻覚/幻聴は殆ど抑えられる。だから、患者は薬をしっかりと服用さえしていれば決して危険な存在ではない。周囲の無理解こそが一番の問題なのだ。あの事件をきっかけに「精神分裂病」という名前を変えようと動きが起こっているらしいが、とても大事なことだと思う。

妹は、普段は、それなりに日常生活を送っているのだが、体調が良くなってくると油断して、薬の服用を怠ってしまう。そうすると再び幻覚が見え出し、奇妙なことを言い出してしまうこととなる。そういう周期がちょうど1年でやってきて、それがまた、私の誕生日前後に重なってしまう。そうして、私はハタと自分の課題を再び思い起こすこととなる。

分裂病は、子供時代に発病することは殆どないから、私もつ背景とキャンプヒルを関連付ける必要は実質的にはあまりない。だが、障害を背負ってしまう人達の人生の意味を思うとき、そこには、何かとても深いものがあるとは思わずにはいられない。

キャンプ・ヒルを日本に本当に作りたいと、この本を読みながらまた思った。

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