ブランドと出口責任
10年余り前の夏、「学校は21世紀からの留学生を迎えています。来世紀のことが分からずに教育はできません」と前理事長に喝破され、持ちかけられていた教員になる話を断るために大垣を訪ねながら、なぜか引き受け、帰途は夢を描くまでになっていました。それまでの公私の狭間で学んだことを若い女性に伝え、その成果に期待をかける日々を夢見てしまったわけです。
四十年前、私は時代の最前線といわれた総合商社に勤め、繊維部門に配属されました。当時は、繊維産業は工業出荷額や雇用者数が約3割を占める基幹産業でしたが、その後は衰退の一途でした。私は紡績産業から衣料企業への主役の交代と読み、ファッションビジネスに生き残りをかける体質転換をサラリーマン生活の使命にしました。
他方、私生活は時代に逆行と笑われる生き方で、自分たちが出す有機物をすべて還元し、野菜や薪などの自給を目指す循環型生活です。これにはきっかけがありました。人類初の人工衛星が飛んだ夜に「そうやって、石油なんかボンボン抜いてたら、湯たんぽと一緒で、いつか空になるな」と知的障害を持つ無欲な友が呟いた一言です。一九歳の私はこの一言に啓示を感じ、翌春から植樹を始めています。40年余が過ぎた今、200種1,000本の木が茂る小さな森のある家に住み、スローライフだと羨ましがられている次第です。
「偉大とは方向を示すこと」とニーチェは語りましたが、私も友の真似をして若人に方向を示したかったのです。だが、前学長が病に倒れられ、学長の話が持ち上がりました。その頃、私の目には乗っている船が大きく揺れているように思われ、受けました。
それまでの経営基盤であった紡績業界から送られて来る3部(昼間2交代制)勤労学生の激減です。加えて、1部の1学科の閉鎖、それに伴う教職員の削減や訴訟問題。さらに一部の学生まで定員を割る状況でした。勤め始めた時は毎年600名も迎えていた勤労学生は、昨年度の22名を最後に募集停止です。この経過を十分に予見していた私は、商社時代にとった杵柄を自ずと思い出しました。
学長に就任し「総合化」と「環境」を特色として打ち出し、「心の大人」を目指し「一隅を照らす人」になろうと呼びかけ、出口責任の必要性を訴えました。勤労学生をはじめ卒業生は、親にこれ以上の負担をかけられないとか弟は四大に行かせたいなど家族思いで心優しい人が多いのです。また本学は芸術系、教育系、医療系と総合的な学科を抱えており、前理事長は環境問題に率先して取り組んでおられました。こうした点を強みとした一部体制や体質への転換です。
幅広い教養を深める共通課目を充実し、他学科の受講を可能にするために学科の壁を外しました。3つの約束「挨拶をする。時間を守る。ゴミを拾う(ゴミを出さない、ではなく拾う)」の励行。学生主体の大学祭。キャンパスの掃除に学生と教職員が当たる。出前講座などで地域に開かれた学校にするなど。さらに懸案の前後期各15回の授業日確保、授業評価制度の導入、80分授業から90分授業体制への変更なども軌道に乗せました。
昨秋、県下初の ISO 14001 認証取得高等教育機関になりましたが、審査官に清潔なキャンパスと学生の挨拶を褒められました。教職員と学生が心を一つにしたのでしょうか、全学一斉清掃日を設けると近隣のごみ拾いもし、その後で全学綱引き大会を開くまでになりました。わずか3年で、こうした結果に結び付けた教職員や学生には頭が下がる思いです。幸い、1部の入学生は募集定員を2年間続けて超えました。
一流の学校にするには、特色を明確に打ち出し、出口責任を誠実に果たすことが求められる時代だと思います。私のサラリーマン生活はモノの面で出口責任を果たすブランドビジネスでしたが、学校はヒトの面でいかに出口責任を果たせるかが問われる時代ではないでしょうか。近年、この社会的要請の変化が読めずに顰蹙をかう老舗企業が続出しましたが、ヒトを扱う学校こそ正しくこの社会的要請を見定めておく必要がありそうです。
予期せぬことから教職の身となり、学長までつとめる羽目になりましたが、船体は安定航行に入ったと見ております。幸いなことに、バトンを喜んで引き継いでもらえる運びとなり、また本学は歯科衛生科の三年制移行が認可され、共通課目が真価を発揮する運びです。ここらあたりで私の使命は貫徹できたものと見て、あとは未来に託し、若い人にスローライフの大切さを背中で伝える身になりたいと思います。
『私学経営』 (株) 法友社 2003年4月号「時評」
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