授業評価を受けて

かねてから私は「ゆとりのある教員生活」を送りたいと考えて学生の声を汲み上げてきた。それは、出席カードを生かして意見を求める程度のものだが、学生の疑問や質問、都合や要望、あるいは理解度や関心度などを知ることができ、講義だけでなく教員生活自体にゆとりを持たせることができた。もちろん講義によって力点の置き所はさまざまだが、意見を述べられる機会を生かそうとする学生の意向は、特に学生代表のような意向は、可能な限り講義に反映させてきた。こうした需要者の立場を尊重する意識の下に、私も「自己点検・評価」の対象者となった。

一昔前に私は唐突に教員になることが決まった。その時に「私に勤まる仕事であろうか」との不安に襲われている。やがてその不安は、教員とは若人に知識や技術などを授けるものならば、それは「何時」役立つものか、との自問に変わった。さらに、若人をどこかへ誘うのも仕事ならは、「どこ」へ誘おうとしているのか、との自問が加わった。そうした「時や所」、つまり未来の想定に努めない限り、不安は取り除けそうにないことに気付かされた。Present-push (次々と生じる目の前の問題に立ち向かうやり方)から Future-pull (先ず望ましき未来を想定して、それに則した望ましき手を打つやり方)への思考の転換である。

かねてから私は、私たちが享受している工業社会はやがて破綻し、これまでとは異なる社会に移行せざるをえなくなる、と見てきた。そして、その移行を好機と見て未来に夢をつなぎ、未来のあるべき姿を現実の生活上で実践もしてきた。それは循環型社会の到来を想定した考え方とその実践だが、それらを著作や誌紙を通して公表(本学紀要1999「グリーンデザインの方向と地平」でも紹介)しながら、私は「デザイン=ゴミ」と切り出すデザイン論を組み立てた。この度の「自己点検・評価」では、このデザイン論に対して次のような学生の反応があった。

この「授業を受けて、デザインに対する見方が変わりました。それまではデザインについてそんなふうに考えたことがなかったので、授業を聴いていろいろ驚いた事がたくさんありました。デザインの見方だけでなく他の事についても自分の気付かなかった事に気付づかされたり、自分の生活や考え方を変えないといけないと思うことがたくさんありました。今まで誰も教えてくれなかった事や教えて欲しかった事を学ぶことができたと思います。本当にこの授業を受けられてよかったです」

「先生は自分だけ暑いからと言って暖房を消したりしますが、寒くたまらない生徒(学生)だっているので、そんな自分勝手な行動はひかえた方がいいと思います。せめて生徒(学生)と多数決でもとってほしいです」。()内は筆者。

「デザイン論は、私自信の進路を考えることができる授業でした。いろんな人の考えや体験の話を聞き、きづかされました。とくに自然への大切さ、デザインとはこれからどうすべきなのかを考えることで、考える力がついたと思います。この学んだことは、社会に出て、役立てていきたいと思いました」

「話す内容が難しかった。理解できなかった。授業の最終的に言いたいことが毎時間つかめなかった。授業に関係ない事が多くて、どの話が授業の内容か分からない。将来役に立つ話かもしれないけど、今の私には難しすぎた。黒板に書く字が読みずらくて、ノートに取れない所がたくさんある。それにどうやって書いたらいいのか分からなかった」

「毎回毎回、先生の話がとてもためになる話でいい講義だと思う。もっともっとたくさんの人にもこういう先生の講義を聞けるようにしたらいいんじゃないかと思う。批判するところは強いていえば、教科書をもう少し多く使ってもいいと思う」

「いいたいことがよくわからなかった。先生のビデオとか先生の奥さんの自慢とかされてもちょっとこまった。熱意というか先生はすごい人なんですよということしか伝わらなかったです。ただだまって先生の話をきいている私たちが参加できない授業はつまらないです」

「レベルの高い授業と思いました。話としては難しくないことも多かったのですが、考えせられるというか、心にきました。色々な話をきかせてもらって、自分にとってはプラスになる授業でした。横文字の言葉が多くて少しついていけませんでした。勉強不足です。ありがとうございました」

学生の声にいかに耳を傾け、評価をいかに読みとり、いかに生かせばよいのか。どこに焦点を絞り、いかに誘うようにすればよいのか。私には新たな課題が加わった。これを一つ一つこなしながら心のゆとりを手にし、より充実した教員生活にしたい。

ここで、これまでの教員生活で得た印象を少し振り返っておきたい。私は、「未来」の想定作業で時間的に忙殺されながら、独自のやり方とはいえ授業評価を学生に求め始めたおかげで精神的なゆとりを手にしたが、その過程での印象である。

先ず、教員にとって大切なことは、己の創造能力や主体性をいかに発揮できるように自ら努力するかにある、と気付かされたことである。迎合ではなく、より望ましき学生や大学の姿を追求するために、学生の声に耳を傾け、いかに生かそうと努力や工夫を重ねるかにある、と思う。

次に、学生にたいする印象である。この想いは、学生の多くが希望を見失いかけている、ことに気づかされたときに沸き上がっている。多くの学生は、自ら進んで未来に夢を馳せようとはせず、さりとて良き過去を学んで大切にしようとするわけでもなく、ただ「今」の充足に関心を向ける傾向にある、と見たからである。おそらくそれは、感受性が豊かな年頃ゆえに、未来に不透明さを感じとり、「今」の充足に走っているに違いない。つまり希望には、その前に立ちはだかる「障害」とそれを乗り越える「自己超克」が付きものだが、それらを苦難と見て避け、「今」の充足に、つまり欲望に走っているのではないか、と見たことである。もしそうならば不憫でならない。古来、希望を抱くことは若者の特権であり、いまも諸外国の多くの若者の特権でありえているのだから。

大垣女子短期大学通信『みずき』2001秋号

愛とは?・愛と環・愛永遠