「心の大人」を競う 若人がいたましい事件を起こすたびに、「子どもは、大人の心を映し出す鏡」と思っている私は胸が痛くなってしまう。何が彼らを駆り立てたのか、と。 人間は他の動物と違って、「三つの面から大人にならないと本当の大人にはなれない」と私は考えている。だから昨年の入学式では、「本当の大人になろう」と呼びかけ、「本当の大人とは?」と問いかけた。 新入生の多くは、在学中に「法的な大人」になり、もはや子どもとしては甘えられなくなる。もちろん、彼女たちの多くは、はるか以前に「体の大人」になっていたに違いない。この狭間で、彼女たち若人世代を板挟み打ちするような何かが社会には潜んでおり、いたましい事件にも結び付けていた恐れがある。 そこで、この自分の意志とはかかわりなく大人になる二つの面の大人ではなく、三つめの大人になろう、と呼びかけたわけだ。それは「心の大人」である。 新入生の中には、厚底靴をはいたような人もいたが、咳払いもせず、目を輝かせ、耳を傾けていた。その目を見つめているうちに、私は彼女たちの世代が生まれ育った頃の浮き足立った社会を思い返してしまった。 オイルショックで打ちひしがれながらすぐに「喉元過ぎれば」の状況となり、その後バブルが弾けるまで続いた十数年間である。日本を一つ売ればアメリカが四つも買えると聞いて「さもありなん」と思ったり、「欧米にはもはや学ぶものなし」と叫んだりするまでになっていた。そうした社会の真っ只中に生まれ、三つ子の魂を固めたいわば時代の「申し子」ではないか。 そんな目で新入生を見渡しているうちに、私は親世代こそ「心の大人」について足元を見つめ直す必要があると気づかされた。私たち親世代は戦中戦後の取り乱した社会の「落とし子」か、落とし子が価値観や美意識を定めぬままに育んだ世代ではなかったか、と。 そのせいだろうか、私たち大人も、心と体のバランスが崩れたような事件を頻発させ、子どもたちに愛想をつかされかねなくなっている。市場を見ても、子どもたちの心と体のアンバランスを狙い撃ちするようなものや、こうしたバランスを見失った大人が生み出したとしか思えないような代物やサービスで溢れかえらせている。ここらあたりで私たち親世代こそ「心の大人」度を高め、本当の大人にならないと、IT革命が叫ばれている時勢だけに心もとなくなってしまう。 米大統領のアドバイザーでもあったアーサー・シュレジンガー・ジュニアーは、「十九世紀の偉大なる英雄たちは、二十一世紀の極悪人への道を歩みつつある」と語ったことがある。これは私たち二十世紀人に一つの選択を迫ったものと見てよいだろう。その選択は、環境問題や資源枯渇問題などをいかに折り込んで判断が下せるか否かを迫ったものと見てよいはずだ。同時に、こうした問題と矛盾しないライフスタイルや社会システムに転換できるか否かを問いかけたものと言い直してもよいのではないか。つまり、これからの本当の大人とは、これまでのやり方を踏襲して二十一世紀の極悪人とはならない人のことを指していると断言してよい、と氏は見たのだろう。 もしそうだとすれば、学校であれ企業であれ、この選択は経営の根幹にかかわりそうな問題だけに留意すべきだ。とはいえ、価値観や美意識にもかかわる問題だけに、宗旨がえをするような苦痛が伴いそうなので不安になる。 もちろん、本当の大人を云々するには倫理や道徳の問題も避けては通れそうにない。だが、これも環境問題などをいかに位置づけるかによって根本的な差異が生じそうだ。うっかり時代遅れや時代錯誤の倫理や道徳をうたい挙げようものなら、それこそ二十一世紀型の善人から失笑を買ってしまうに違いない。 IT革命は、国境や民族あるいは宗教などの壁を超えて情報の交換や人々の移動を促すだろう。選ばれる立場となりつつある大学は多大な影響をこうむるに違いない。いかなる使命や理念を明確に掲げることができるか、その思想の是非が問われそうである。 「心の大人」を云々し始めていながら、こんなことが気になり、次第に足元が怪しげになってしまった。しかし、間違っても教職員など大人のつごうを若人には押しつけまい、と心に言い聞かせているうちに態勢を整えられたようでなんとか持ちこたえた。 とはいえ、わが国は私たち落とし子や申し子などが幅をきかせているせいか、環境問題など自己抑制を伴う問題を避けて通ろうとする傾向が強い。この点はなんとしても改めなければいけないと心に言い聞かせている。 『私学経営』 (株) 法友社 2000年3月号「時評」
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愛とは?・愛と環・愛永遠