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ピエタとイノシシ 10/10/31
 
 イノシシが侵入し、畑のユリ根をはじめ、野菜の畝はもとより庭をぐちゃぐちゃにしていました。ミミズや自然薯(ジネンジョ)も狙ったのでしょう。先週火曜日に渋柿の皮をむいて吊るし、この週末にイタリヤから帰ってくるまでの間の出来事です。妻も大阪での個展中で、十分な手を打てなかったのです。侵入されたと知った日の夕刻に、懐中電灯をかざしながらサツマイモとコイモを掘り出すだけで精一杯であったようです。

 帰宅後、野菜の天ぷらうどんで腹を満たし、その上で庭を見て回わりました。天ぷらに用いられていた野菜が、トウガラシ、花オクラ、ナスビ、そしてインゲンマメであったわけがすぐに分かりました。イノシシはトウガラシやオクラは嫌いと見えて一切手をつけていませんし、ナスビとインゲンマメも難をまぬがれていました。それはともかく、防御策を急いで打たなければいけませんが、次週月曜日以降のことになります。明日曜日は午後に、NHK学園のセミナーで大勢の人を迎える予定がはいっているからです。

 イタリヤ旅行は「テッラマドレ」がきっかけでした。テッラマドレとは、イタリヤに本部を置くスローフード協会が2年に一回開催するいわば食の祭典で、アメリカで始まったファーストフードに危機感を抱く人々が、主に農業従事者が結集します。このたびは4回目で、150カ国7000人がトリノオリンピック会場を埋めました。先回までと違い、5大陸から先住民族代表を招き、スピーチをさせたことです。スローフード協会長やトリノ市長などのスピーチと合わせ聴いてわかったことは、これは工業文明のあり方に一石を投じる革命だ、ということです。白人の植民地政策と工業文明を厳しく糾弾していました。

 イタリヤは英独仏などから軽んじられがちですし、米からも同様です。それだけに1人気をはくようなことをしでかします。工業文明に警鐘を鳴らしたローマクラブの動きもその1つでしょうし、企業の巨大化も志向していません。勤労者の9割以上が従業員50人未満の組織で働いています。私は、いずれはイタリヤ型の時代に、職人が気を吐く時代に、手づくり製品がもてはやされる時代になると見ており、学ぶべき国だと思っています。

 イタリヤ旅行では、他に2つの狙いがありました。トスカーナでのアグリ・ツーリズモの体験と、中世の見直しです。まず、ぶどう栽培とワインの醸造にかかわりながら調理人としても名を馳せるご主人の民宿では、トリュフ三昧でした。次いで600年前から住み続けてきた地主の館では、伯爵夫人が用意した朝食を味わいました。もちろんオリーブ園、オリーブを絞る業者、ぶどう園、そしてワイン醸造会社なども見学しています。いずれもが目の行き届く範囲内での職人気質が支配する経営でした。

 トスカーナの雄大な景観だけでなく点在する中世に建造された世界遺産の街々、フィレンツェ、シエナ、そしてピエッツァもとっぷりと眺めてきました。そこで繰り広げられている仕事やそれに従事する人たちとも触れ、それらを維持する人々の心意気に感動しました。地域共同体意識が根強く生きていたのです。また、ミラノやローマにも足を伸ばし、ビジネスマン時代に訪れた記憶をよみがえらせました。

 旅の仲間は、産地指定農政などに疑問を抱く農業に携わるご夫婦、農業の工業化に危機意識を持つ元役人の特任教授、そして地方の復活が必要だと見るジャーナリストでした。旅の締めくくりは、バチカン見学の後、黄昏時の肌寒いスペイン広場を訪ね、身を縮めながら焼き栗をほおばり、『ローマの休日』や前回の栗の味などを偲ぶことでした。

 
旅に出る前の最後の仕事は渋柿の皮むきでした。妻が心斎橋大丸の会場で飾り付けをしている頃だと考えながら、むいて吊るしました。養蜂の師匠が送ってくださった不完全甘柿で、「ゼンザエモン」という品種です。甘柿も交じることがあるそうですが、美味しいのはカラスに襲われたそうで、すべて渋柿でした。

テッラマドレの開会式。外国からの参加者はアメリカが圧倒的に多数を占めていました。ファーストフードを生み出したアメリカには、アンチ・ファーストフード派も多いわけです。『「想い」を売る会社』の取材旅行を振り返りました。取材先はアンチ・ファーストフード派が多かったので、再会できるのではないか、期待したからです。

トリュフ三昧。トスカーナの丘陵地帯にあったアグリツーリズモの民泊で、食事を5回とりましたが、内3回にトリュフがつき、2回目の夕食では掘りたての香りが強い白トリュフがすべてのメニューに用いられました。私たちのマッタケの香りに対する思いを振り返りながら、彼我の差を偲びました。

ミラノでは久方ぶりにドゥオモを見学し、周辺もめぐりました。かつてドゥオモは汚れて黒くなっていたのですが、すっかり掃除をされて白く輝いていました。またミラノでは、ムッソリーニ駅や、フィレンツェではムッソリーニがヒトラーを案内するためにベッキオ橋の回廊に設けた窓も見学し、泡沫に終わった指導者の威勢も偲びました。

ローマでは、夕暮れ時のバチカンが最後の見学先でしたが、ミケランジェロのピエタはガラス越しの見学になっていました。かつて朝一番に訪れ、ピエタをたった1人で眺めたり、3脚を用いて己の姿をフイルムに収めたりした日の思い出に浸りました。その折は、ドームの最上階まで登っています。

留守中の郵便物に楽しい知らせがありました。その第一は、友人が出演する楽しそうなコンサートの案内でした。高木先生には5〜6年前に一度アイトワ塾に参加して、寿命と老化の話をしてもらいましたが、いまだに話題にのぼることがあります。