次代は「職人の時代」になる、と兼ねてから見てきた私は、その職人とは旧来(「職人甲」とする)のありようでは収まっておれない職人(「職人A」と呼ぶ)と見ている。
「職人甲」とは、「時代U(農業時代)」が誕生させた職人であり、その技や匠(たくみ)を受け継ぎ、磨き上げ、現代「時代V(工業時代)」に至っており、その頂点は人間国宝として崇められている。いわば究極の技や匠に挑む尊い人たちダ。対して「職人A」とは、次代、つまりこれから迎える「時代W」が求めるもっと尊い職人ダ(と、私は睨んでいる)。
「職人甲」の問題は、活動する時空が、かつては限定されていたことダ。今日にあっても、限定されがちになっている。つまり、かつては「時代U」が誕生させた貴族階級などを対象にしていたし、今日もなお、いわゆるセレブなど、限られた「顧客」に奉仕する存在として匠や技を競いがちになっている。
対して、「職人A」は、「すべての人の生活の営み」そのものを芸術化するために匠や技を振り絞ろうとする職人でなければならない。なぜなら、時代そのものが「時代V」まで(1つの価値観でつながっていた)とは大きく異なる「時代W」に代わらざるを得なくなるのだから。
「時代V」までは、人間は欲望の解放を目指してきた。「時代T(原始時代)」は、自然の恵みに甘えた欲望の解放をあまねく人が目指していた。「時代U(農業時代)」は貴族階級など一部の人の欲望を解放するために、多くの人が奉仕した。そして「時代V(工業時代)」は、機械化が進みオートメイション設備を生かし、すべての人の欲望を解放してきた。
つまり、「時代U」に誕生したから「職人甲」は「時代V」に移行した折にその立場を大きく変えている。「時代V」への移行が進むに従って、「職人甲」の技や匠はオートメイション設備にとって変わられ(つまり「もどき」に)駆逐されている。大量に生み出される「もどき」によって、その地位を脅かされている。かくして、すべての人を「消費者」にする時代(消費社会)になってしまった。そして今、誰の目にもその破綻が見え始めている。
今や工業社会は爛熟し、農業時代とは異質の貧富格差が生じ始めるなど、私たちは悲惨な事態に陥れられ始め(ており、命の重みの格差にも鈍感になり始め)ている。こうした社会からいち早く脱却したいものだ。そのためにはまず、工業社会を卒業することが求められる。同時に、経済を破綻させずに「ポスト消費社会」に移行しなければならない。
その折に不可欠なのが「職人A」ダ。人々は、お金さえ出せば誰にでも手に入るようなモノ(を買いあさり、競い合うようなコト)にはさして興味を抱かなくなるだろう。つまり、「欲望の解放」に振り回されているだけでは満足しきれず、「人間の解放」を求める人が大勢を占めるようになるだろう。それがポスト消費社会ダ。
その時に求められるのが「職人A」ダ。それは真の「職人の時代」、つまり完全な自由と創造を旨とするの「職人の時代」の到来である。
こうした想いの下に、私は今週(傷だらけの廃石を用いて「寄せ石の踏み石」を完成させた。また、過日佛教大生が据えた大石に、傷だらけの廃石とリュウノヒゲを用いて化粧した。これらは、最小の消費(資源)で最大の豊かさや幸せを追求する技と匠の追求であり、「職人A」の真似ごとダ。間違いなくこの作業の間は、完全なる自由と創造を楽しんでいる。
今週は久しぶりに水島さんが来て、樋を付け替えた。
わが家には高木(炭酸ガスを吸収しながら冷暖房効果を挙げ、地球温暖化ガスの排出を抑制する役目を任っている)があり、落ち葉で樋が詰まりやすい。しかも、その樋(2カ所で雨水を溜めている)の軒下にはムベ棚(高木と同様の役目を担う)があり「樋掃除が難しい」などの問題が生じていた。やむなく、工場用の樋(日本には、大きな樋は工場用しか見当たらない)を用いたが、問題はこの樋に適応する既製の集水部品が見当たらなかったことダ。
やむなく、水島さんは手作りで(既製の部品を組み合わせて)集水器を造った。その嬉々として取り組む姿に、私は「職人A」の時代を観る思いがしている。
もちろん「職人甲」と「職人A」をどこで切り分けるべきか、議論の余地が大きいことを承知している。あえて言えば、「職人甲」は、カネにいとめをつけない人に奉仕する匠や技を競い合いがちになる。対して、「職人A」は、社会の底辺を支える人たちの生活の営みそのものも芸術化することを旨としながら、「時代W」の創出に寄与するだろう。
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