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想像と創造、そして希望 11/04/24

 木曜日に予期せぬ一件が生じたおかげで、共感の喜びにひたり続けたような1週間になりました。予期せぬ一件とは、福島の原発事故から脱出した一家5人を、事情があってお迎えし、いわゆる一宿一飯のお世話ができたことです。爽やかな家族でした。

 週初めは丹後出張でした。2日と半日家を空けただけですが、その間に雨がタップリ降ったようで庭は一変。落葉樹はうっそうと茂り、野草が随分伸びていました。サクラは末期の姿になっていましたが、ラズベリーが咲き、ハナスオウやヤマブキは満開になっていたのです。

 地球デザインスクールは、「富良野自然塾」に学び、「地球の道」を丹後につくり、府の関係者などを招いて「京都自然塾」オープンセレモニーを催しました。前日は強風と雨でしたが、当日は快晴で明け、セレモニーのあとの倉本聰さんの講演「当たり前の暮らしを求めて」に、890人余の人に駆けつけてもらえました。しかし講演の半ばから丹後らしく雨でした。

 倉本さんは想像力をとても大切にされており、「前例がない」と「そうは言っても」は禁句で、「想定外」という言葉は「想像力が貧困である証拠」と喝破され、覚醒です。また、「当たり前の暮らし」の根本に「貧幸」を据えておられ、それはアイトワが目指す「清豊」と同義のようでしたから共感です。この出張のおかげで、このたびの天災と人災のダブルパンチがもたらした悲劇だけでなく、活断層という言葉が誕生した経緯などさまざまなことを知りました。

 水曜日は、「アイトワの庭での研修」を希望する女性を迎え、まず常緑樹の落ち葉掃除と、菜の花畑を冬野菜の畝に仕立て直す作業に携わってもらいました。半年間にわたる体験を通して希望と欲望の峻別をしてもらいたい、と思っています。アイトワでは工業社会の破綻を見越し、清貧に留まらず「清豊」を求めてきましたが、体でその本質を覚えてもらいたいのです。つまり、「消費の喜び」ではなく、「創造の喜び」に浸たる人になってもらいたい。

 翌日、いわき市にある1丁2反の生活基盤を見捨てるようにして脱出した一家を迎えたわけです。そこで、予定していたアイトワ塾で、仲間と一緒に歓談しながら食事をしてもらいました。この一家は、原発事故3時間後に、福島原発から20キロ余の地点にある生活拠点から車で脱出。50km走ったところで水素爆発が生じたそうです。この決断は、父親がチェルノブイリ原発事故現場を見学していたこと、一家は放射能障害を持つベラルーシの子どものホームステイ活動に参加したこと、あるいは子どもは他に2人いて、1人はオーストラリアに定住していること、などが下させていました。つまり、政府、東電、御用学者、あるいは報道機関が発する情報と海外情報を照らし合わせながら松山を最遠に2500kmも逃避行していました。その過程でアイトワの噂を耳にして、見学を希望されたものです。

 金曜日の午後、5人を送り出した後、メダカなどの餌やり、1本の原稿の仕上げ、あるいは小雨が途切れたときにタラノメの収穫などに費やしたり、過日東京で開催された繊維リサイクルシンポジュームでの私の提案を振り返ったりしています。この提案が新しい可能性を生み出しそうな電話をもらったからです。そして夕刊で、政府が、まだ80人近くが留まっている放射能被災地を「立ち入り禁止区域」にした、との報道に触れています。

 週末は養蜂の師匠を迎えました。木漆工芸に関わる素敵なご夫婦を同伴で、話題はおのずとハチとウルシや家具の間を行き来しました。しかし、行き着くところは1つでした。希望をかなえようとすると、乗り越えなければいけない高いハードルがつきまとう、ということです。師匠に、わが家のキンリョウヘンの蕾が1つ開き始めていたことに気付かされました。


丹後出張時に、自分の手とセンスだけで廃屋を改装した人とめぐり合い、案内してもらいました。かつての惨状を知っている私は、布団をひと流れ送りつけたくなりました。夜を通して酒を酌み交わしたくなったのです。この人は、日々の生活を芸術にしたい、生活空間を4次元芸術の対象にしたい、と考えているようです。当週初日の共感の人でした。

月曜日の午後、倉本先生を伊根の酒蔵見学に誘いました。日本で最初に女性の杜氏を生み出した酒蔵です。幸いなことに、その女性杜氏に醸造場などを案内してもらえたうえに、先生と杜氏は波長がうまくあったようで、会話が弾んでいました。

この菜の花畑が順次夏野菜の畝に仕立て直されます。これまでに1畝が助っ人学生の手によって仕立て直され、当週は庭での研修を希望する女性の手によってもう1畝に手がつけられました。この女性は大胆にして繊細な人のようで、とても期待しています。世の中では、いまだに日々の暮らしを外化し、消費の喜びに走る傾向にありますが、その生き方に疑問をいだいてほしい、との期待です。

アシタバの2つ目のメニューが誕生しました。アシタバを、アイトワの3つ目の自生青菜に仕立てあげたいのです。私亡き後の妻が、畑仕事ができなくなったときに、「青菜には不自由しなくてすむ」との気構えを持たせておきたい。そのためには、アシタバが妻の目にとまると自動的に美味しそうな料理が目に浮かぶ体にしておく必要がある、と思うのです。

賑やかな夕食でした。親友からタケノコが届いたのを幸いに、わが家のフキ、菜花、シイタケ、木の芽、ミツバなどをそえて「ちらし寿司」を造ったのです。ゲスト家族の姉の方は、8歳の時に放射線障害に苦しむ同じ年頃のベラルーシの子どもと寝起きを共にしたといって涙ぐみ、しばし自己紹介が途切れました。

木陰のテラスでサンドイッチの朝食。一番人気は妻が初挑戦した黒パンのサンドイッチ。ポテトサラダにミツバと玉ねぎを加え、ホースラディッシュ、マヨネーズ、塩コショウ、そして薄口醤油で味付けです。一家の主は早朝に起きだし、東京での講演に向かっており、味わってもらえませんでした。

たくさんとれた最盛期のタラの芽は、夕食の天ぷらと翌日昼の天ぷらうどんに活かされました。夕食の天ぷらは、他に最盛期のミツバ、最後のシイタケ、初収穫のアスパラガス、冷凍してあったコゴミ、頂き物のタケノコ、そして買い求めたイカでした。