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観光、交流、啓蒙 06/09/03

 日曜日の20日、朝顔咲く。月火は岡山県津山市に出張。帰宅した火曜日の午後、待望の雨。その雨を縫うようにして今は亡き友の息子が埼玉より来宅。23日の朝、コジュケイ鳴く。その声を尻目に中国に向けて出立。関空ではアメリカ行きの人だけを分けて厳しく出国検査。31日夕刻鼻水をたらしながら帰宅。妻によれば、留守中にまとまった雨がなかったとか、庭はカラカラ。しかし、その夜から雨が降り始め、翌朝までしとしと降り続き、草木は元気を取り戻しました。

 雲南省元陽に世界最大級の棚田を訪ねました。標高1980mから170mにいたる標高差1800mの山肌に3000枚もの棚田を切り開き、少数民族が1000年以上に渡って持続可能な生活をひっそりと続けてきたところです。騎馬民族のハニ族や三国志時代に蛮勇を奮ったイ族が、漢民族に追われて逃げ込み、5つの村を形成したわけです。今は世界遺産への登録を試みていますが、3000人近い人が自給自足的な生活を営んでいます。その1つの村、人口800人余のチンコウ村を訪ねました。

 チンコウ村は既に「農家楽」と呼ぶ観光客の受け入れ態勢を整えており、踊りを見学し、村で夕食もとりました。京都府立大と雲南農業大の合同シンポジュームに加えてもらう旅でしたから、翌日は円形テーブルを囲み、元陽県の副県長や世界遺産登録関係の役人などの意見を聞いたり2人の村長と意見を交したりすることも出来ました。中国政府は少数民族を「観光」の目玉として生かそうとしていますが、学者はそれに留めず、対等の関係、つまり「交流」の次元にまで上げるべきだと見ているようで、とても有意義なシンポジュームでした。

 もちろん私も持論を展開しました。世界遺産を目指すこの棚田村と世界遺産になった白川郷とアメリカのアーミッシュ村を対比しながら、キーワードで言えば「啓蒙」の空間にしては、との提案です。これは、工業文明が農業文明より進んだ文明とは見ず、早晩工業社会は破綻するとの見方が導き出した提案ですから、容易に理解されようはずはありません。しかし問題提起だけはしておきたかった。つまり、工業社会に疑問や不安を抱き始めた人を対象に、人類が切り開くべき持続可能な「次の生き方」を展開して見せ、啓蒙する空間に仕立て上げるべき、との提案です。

 その後、麗江(れいこう)に移動し、ナシ族が住む束河(ソクガワ)村と白沙村も訪ねました。白沙村は寂れていましたが、束河村は政府が田畑をつぶして観光客対象の商店街を展開させておりとても賑わっていました。商店街の経営には外来のペイ族が当たり、住人のナシ族は観光馬車の御者や踊り子とか山菜の採り役などに従事しているようでした。御者の1人によれば、「昔の方が住みやすかった」とのこと。昔は祭りや婚礼など良き日に年間20回ほど村をあげて踊ったが、今は毎日8時から10時まで特定の踊り手が従事しているとか。だから観光客を「明るい気持ちでは迎えられない」ともらしました。祖母を含む5人家族の農夫の意見も聞きました。十分な農地を持つ家族でしたが「便利になったが、川が汚れた」とのこと。村には水路が走り、今も雪解け水でスイカを冷やしたり洗濯したりしていましたが、水飲み場がありながらすでに水を飲む人を見かけませんでした。観光ブームが去り、自給自足できない生活空間(汚れた水や山菜などの山の幸が枯渇した野山)に、自活力を欠く住人まで取り残すことになったらどうなるのか、心配です。

 こんなことを思い出しながら9月1日の金曜日は静養し、土曜日のこれから、咳と水バナが残っていますが、アイトワ塾の仲間と車で岡山県倉敷市の児島に出かけます、商社時代に知り合ったわが国ジーンズ界の草わけ的存在の知人を訪ね、案内してもらったり一献傾けたりするためです。ビジネス的にはライバル関係にありましたが、ジーンズが人類共通の衣服になるとの未来展望や自然を見る想いが共鳴したようで、その後親交関係にあります。

今年も庭で自然生えし、咲き始めた朝顔で、私たち夫婦が一番好む朝顔です。このたびの中国旅行では、同じ花をつけた(野生種のごとく咲いていた)朝顔を見かけました。
乗り合わせた飛行機の客席で見かけた機関紙の表紙です。3000m級の山の上部は森林のまま残して水を涵養させ、伏流水が噴出するあたりに村落を形成し、その下部に棚田を切り開いています。勇猛でならした少数民族が、世界最大級の棚田を切り開き、一転して持続可能な自給自足型の生き方に転向し、穏やかに過してきたわけです。(写真をクリックすると棚田の写真が見られます
石林の見学もしました。まさに石の林でした。中国は観光ブームで大部分は中国人観光客。中にはアメリカ人のようにモノを食べながら巡る人たちが増えており、石林の谷間はやがてゴミ溜め場のようになりそうで、心配です。観光客相手の物売りがたむろしていました。
大理石で有名な「大理の古城」も訪ねました。まるで東洋風オープン型ショッピングセンターになっていました。少数民族がサービス業に勤しんでおり、中には享楽的な姿さえ晒す人が現れています。女性の多くはまだ民族衣装をつけていましたが、男性と子どもは漢民族と同じ服装になっています。
大理古城では少数民族を題材にしたショウ「麗水金沙」も見ました。ロシアバレイ、NYラジオシティのラインダンス、そして宝塚歌劇などを連想させる賑やかな出し物で、歌舞伎のように掛け声を張り上げる人が大勢いました。
束河村で語り合った御者です。現金収入を増やさないと生きられなくなり、奥さんは出稼ぎで父子家庭だ、と寂しそう。今も農業をしていますが、農地の再分配がされておらず、とても生き辛くなったようです。

シンポジュームでは、私は少数民族が工業社会の波に翻弄され、取り返しのつかない大きな代償を支払わされそうだ、と心配でした。でも、肝心の少数民族は、工業社会に馴染んだ私たちと同様に、その翻弄に憧れているようですから、無力感を覚えました。